143 New Karedonia からLaurent さんと Soniaさん (2008/11/03)

10月は沢山の人が池川ヨット工房を訪問してくださりまた小さい出張仕事も重なり本当に忙しかった
海の広場を更新する余裕すらない状態でした。

ニューカレドニアで1週間滞在中に知り合いになったLaurent &Soniaさんが「Shitane」(サタンという意味で最初からの名前の中古の鉄船)という彼らの船を松山のアンカレッジマリーナに置いて、
ロシア縦断鉄道の旅の後ヨーロッパに2ヶ月ほど滞在し再び出航のため松山に帰ってきました。

彼らはまず最初小笠原父島に入港し僕の古い友人の菅野さん(小笠原ヨットクラブ会長)にお世話になりました。

その後大阪の泉大津マリーナで息子達二人も含めみんなの大歓迎を受けそのままロシアに渡ろうとしたのですが
何度ロシア領事館へ行ってもらちがあかず
船でのロシア行きはあきらめて台風が来ても安全な上架を選び松山まで「Shitan」を回航してアンカレッジマリーナに 保管をお願いしました。

ロシアの旅の美しい写真なども見せてもらいましたが自然は残っているのにまだまだロシアは閉ざされた世界で旅人が自由に行き来できるという風ではないようです。

 

松山に帰って来て出航までの13日はあわただしく過ぎていきました。

最初の内こそ余裕で船内の片づけをしたり、
船底塗料を塗ったり、
買い物をしてフランス料理を作ってくれたりしていましたが、

だんだん出航準備も佳境にかかり
出国手続きや日本でしか買えない物の買い物や友達への土産を買いに行く事や
長期航海に必要な新鮮な野菜や果物や卵などの買い物で毎日運転手と通訳をこなしだんだん僕自身が焦るようになってきました。

何しろ滅多に買い物などしないのでカメラ一台買うにも1時間以上ああでも無いこうでもないと相談しながら店の人と彼らの言い分をつたない英語で訳すのですから僕としてはたまった物ではありません。

西欧人の中でもフランス人はおおむねそうですが納得が行くまでとことん聞いてから決断します。
日本人のようにまあ何とかなるだろうというようないい加減なところが少ないようです。

いよいよ税関と出入国管理事務所へ行って出航の届けをしてからも
友達の子供のためのおもちゃを買いに行って貴重な時間を半日も潰すのですからだんだん僕も投げやりになったりしました。

でも彼らはマイペースでいつものスマイル
何とかかんとか出航準備も整い前日には堀江の前にアンカーリングした彼らの船に食事に誘ってくれました。

今では一緒に夕方の散歩をしたり
あちこち買い物に行ったのは良い思い出ですが

もう少し順序よく余裕を持って出航の準備が出来ていたら彼らの願いを100%かなえてあげられたのにと思います。

 

Laurentさんはフランス人ですが世界的な蚊の研究機関に在籍しています。
10年以上働けば半年の休みがあるそうです。(日本と違って休みは長いですね)

年休を貯めておいたのと併せて今回の旅に出発したのだそうです。

だから1月末までには仕事に復帰しないとデスクを失うそうです。
それで出航を焦っていたのでした。

彼は若い時にフランスからケープホーンを超えフェデラルフェゴ島で奥さんのSoniaさんと知り合い
いったんフランスに帰ってもっと大きい今の船「Shitane」に乗り換えてもう一度南米南端を回って南太平洋の旅を続け
ニューカレドニアに船を家として住み着いたのだそうです。

その間4人の子供達も船から学校に通い最後の18歳ダニエル君がベルギーの大学に進学が決まったのでいよいよ航海に動き出したそうです。

大きな本船と一緒にチリの海岸に「Shitane」が大風と大波で打ち上げられ水船になって命からがら上陸したと言う時の古いチリの新聞写真も見せてもらいました。
船内をストリップアウトしてもう一度作り直しながら一家で南太平洋への航海を続けたそうです。

1970年代の古いヨット乗りですね。
あのニコニコした優しい髭面の何処にそんな馬力があるのか僕は想像できませんでした。

いよいよ出航の朝「花丸」で伴走して松山観光港の少し先まで送りましたが、
夜明けで顔が見えるようになって長い汽笛を鳴らしてお別れする時
あんなに明るいSoniaさんが涙を拭いて手を振ってくれたのを見て僕らも出航の日は寂しくて口をきくのも嫌なくらい沈んでいたのを思い出しました。

出会いが有れば必ず別れの日は来るのにそれでも出会いを求めて旅をするヨット乗りって何なのでしょう???


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