146 Y-15 (2008/12/17)

1976年冬大荒れの北太平洋をサンフランシスコまで航海中の僕は波が体当たりするたびにブヨブヨとふるえてギーギー今にも分解しそうな音を出すプラスチックのヨットに嫌気がさした。

航海から帰ったら直ぐに木造ヨットの作り方を身につけて次の航海は自分が造ったしっかりした木造船でやるぞと言う固い決心で船に積んでいた横山晃著「新ヨット工作法」を読み始めた。
読むと言うより日本に生きて帰り着いたら直ぐにY-15から作り始めると言うつもりで頭の中で手順を追いながらヨット工作法を何度もイメージした。
そのことを考えることで凍り付く寒さと荒れ狂う海の現実から逃避できた。

その後メキシコ・ガラパゴス・マルケサス・ツアモツ・マーシャル・マリアナ・ソサエティーと南太平洋の小さい島を転々とたどりながら無事に1978年6月に日本に帰り着いた。

そして直ぐに横山さんにY-15マーク2の図面を発注した。
当時住んでいた広島のアパート6畳と4.5畳の部屋のフスマを取り払って合板を並べ現図を描き始めた。

現図が終わった頃に仕事が変わり52フィート「エリエール」の艇長として東京都大田区へ引っ越した。
都会はとてもじゃないがヨットなど造れる環境ではなかった。

それでもその2年後長男真澄人の誕生で土が見える環境に住まないと子育ては出来ないと痛切に思い横浜市本牧に引っ越した。

その当たりから横山さんが「海で生き残る条件」と言う記事を舵に載せたのに触発されてヨット自作の機運が高まった。
日本にヨットのアマチュア自作グループが2つも出来 結構活発に活動した時代が懐かしい。
僕もK-16・ソーラーディンギー ・Y-14・セーリングカナディアンカヌーと次々にディンギーを造った。

そして僕は33歳で「エリエール」を降り愛媛に帰り「池川ヨット工房」を始める。

20艇以上のディンギーを造ってのんびり暮らしていた時に突然横山晃さんが奥様と御一緒に松山の池川ヨット工房を訪ねて来られた。
曰く まともなクルーザーを造って欲しい。

横山さんの要請を受けるべく僕は借金をして工房を持ち上げ引き延ばしクルーザーを造れるサイズに拡張したのです。
そのとき 僕の最後のクルーザーは何処か仕事とは別に土地を借りてアマチュアとして造ろうと考えていたのですがどうせならと工房を僕の32フィートガフケッチが造れる大きさにしたのでした。

そして本物のウエスト工法で4艇のクルーザーを世に送り出しました。
僕のために造った「花丸」は去年から今年の半ばにかけてニュージーランド往復の最後のシェークダウン航海も終わり 、
(サイクロンの洗礼も受け)
僕の造るヨットは外洋航海に充分耐えることが出来ると言うことが解りました。
もちろん弱い点もずいぶん改良してより良いヨットに仕上げることが出来ました。

ここに来て世界同時株安です。
株だけではなくあらゆる面で世界中の経済がガタガタになりました。
当然僕のクルーザー受注にも今の世界経済の状況は響いています。

そこで
原点に帰りY-15を造るつもりです。

今ではY-15マーク3になり僕の図面の通算設計図の番号は4337号艇となっています。
設計番号が若く横山晃さんの最後の方の作品です。

このY-15が横山さんが「海で生き残る条件」に書かれている手放し直進性能に優れ、軽量、粘り腰の強い復原力、沈しない人間が疲れにくいディンギーです。
横山さんが発見しサバニ船型という呼び名をつけた船型による手放し直進性はあらゆる面で乗り手の能力を伸ばし安全に寄与します。

おそらく4月くらいまでには完成することと思います。
それまでにこの船を販売したいのですが、
どなたかY-15マーク3(ウエスト工法の特別仕様)を欲しい方はお声掛けください。

関東も関西もヨット乗艇教室は50歳以上の人でにぎわっているそうです。
教室になど行かないで自分で思うぞうんぶん朝から晩までヨットに乗って海で生き残る条件を身につけようと言う人にお勧めします。

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