151 小笠原へ青い海を見に-4 (2009/09/24 )

 楽しかった父島滞在12日間はあっという間に過ぎ去り、
2009年7月6日(08:20)いよいよ四国土佐清水港を目指して出港する。

10:00愛媛県松山からのトータル・ログが975.3マイルとなる。

夕方になりメインマストとミズンマストのフラッグラインに中島さんにもらった閃光を発するLEDライトを吊す。
これは600メートルの海底で(光が届かなくて暗い)閃光でメカジキを引き寄せるストロボライト。
航海灯などよりよほど遠くから本船は花丸を認識することが出来るはずだ。

航海灯は本船から見れば停泊しているに等しいスピードのヨットの位置を知らせる光としてはほとんど何の役にも立たない。

僕はマストトップの全周灯とストロボライトの組み合わせが危険をもっとも回避できる光だと思う。

食事は毎朝1合の米をシャトルシェフで炊く。
朝はご飯と卵とインスタント味噌汁、
昼はインスタントラーメンか焼きそば、
そして夕食は残りのご飯と何か一品おかずを作るようにした。

一人の食事は美味しいとは思わないし空腹を満たせば事足りる。
それでは人間の体に必要な稀少ビタミン類が不足するので毎朝ビタミン剤は欠かさず飲んだ。

ビタミンが欠乏すると判断力が衰え何をするにも決断が遅れると言うことを長い航海で経験しているからだ。

時には

朝デッキを見回るとトビウオの大きいのが飛び込んでいることがある。
これは塩焼きでいただくと大変美味しい。
せっかくの海からの贈り物味わっていただく。

2009年7月11日(土)17:00無事に出港した土佐清水港に入港した。

ここまでで四国一周から派生した小笠原往復の青い海を見に行く航海は一応終了と言うことになる。


翌日土佐清水を出港して高知港の直ぐ東にある古川漁港へ向かう。

泉大津の「S&S」石田さんが電話で港の詳しい情報を送ってくれる。

「ブルーシーガル」の上田さんからも電話が入り土佐清水へ帰り着いたというと大阪へは来ないつもりかと言われる。
四国一周を律儀に続ける為に一度土佐清水に帰っただけで泉大津へは今から行きますと返事をする。

2009年7月13日14:00には強い追っ手の風を受け8ノットのスピードで日和佐に入港
ヨットを始めたばかりだという芳賀康二さんというサーファーに会い一緒に風呂に行き
燃料を買い途中で釣れた魚を食べる。

彼は中古のキャナル25(僕が33年前に真冬の北太平洋をサンフランシスコに渡りその後メキシコ・ガラパゴスを経由して南太平洋をぐるっと回ったヨット)に乗っていたのでちょっと懐かしくなりずいぶんいろんな話をした。
よくあんな鈍重な船で航海したものだ。
とにかく若かったし何も知らなかったから出来たことだろう。

翌朝早く日和佐から一気に泉大津を狙う。

朝は04:00起床で出航準備、
出航は日の出前の明るくなり始めた時間、
そして入港は15:00から16:00というのが理想の一日行程。

泉大津に着いたのは2007年7月14日17:30少し遅かったが何度も入っている入りやすい港なので不安はなかった。

上田さん石田さん松村さんが出迎えてくれ
セールカバーをして早速ビールそして風呂へ。

松山からのトータルログは1843.4マイルとなっていた。

長男 真澄人君も松山から到着して瀬戸内海は一緒に帰る事になった。

16日には松村さんが準備を引き受けてくれて僕のために泉大津マリーナの駐車場の続きにある公園でバーベキューパーティー。
素晴らしく美味い肉で沢山の人とビールを飲みながらヨットの話をして大風呂敷を広げた楽しい夜だった。

17日まで泉大津に滞在したが、
たいていは湯本さんの「Cooper」艇と矢田貝さんの船で夜遅くまで話し込んだ。


2009年7月17日06:50泉大津出港

11:30明石海峡通過

小豆島の池田港東の小さなポンツーンに係留したのは17:05だった。

そこでカヤックのインストラクターをしていた連河さんという人が個人的に風呂と食事の出来る土庄というところまで車で送ってくれた。
帰りは真っ暗になりタクシーで花丸まで帰り着く。

翌日は05:00出港で大三島へ

真澄人君とかわりばんこのワッチなので瀬戸内海の航海も楽なものだった。
瀬戸内の3架橋をくぐり無事に母港の柳原漁港へたどり着いたのは
2009年7月19日12:00だった

トータルマイレージは松山出航から松山帰港で2037.6マイルとなっていた。

一ヶ月と5日の小笠原父島往復を含む 四国一周 青い海を見る航海 は終了しました。

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