172 ヨットへの情熱 2013/02/02

海から20キロメートル以上の内陸部で山が直ぐ目の前まで迫った道後平野の殆ど一番奥にある東温市見奈良と言う所で育った僕は中学の終わりまで海を見るのは年に一度くらいだった。
塩辛い水の広い海が(瀬戸内海で島だらけ)何所までも世界中に続いて居ると思うだけでわくわくして海を見た日はしばらく眠れないくらいの興奮状態が続いた。

宇宙旅行がしたいとか気球で太平洋を渡ろうとか中学2年生まで色々考えていたが、
どうも1人で自分の力だけで何所までも好きなように行く事が出来るのはヨットしか無いと言う事が中学2年生になって解ってきた。

そこでヨットの旅を僕の一生の仕事と決めてしまった。

高校へも大学へも親の希望で行くには行ったがろくに勉強はしなかった。
元々勉強は好きではない。
アウトドア遊びを教える学校とか有ればそこに行きたかったが僕たちの時代はそんなのは無かった。

勉強をして良い点を取り有名な学校を卒業して大会社に勤める。
仕事は自分で何をするかも決められないが会社の指示に従って高給取りになるのが仕事というような人生は僕には到底出来ない。

何のために嫌な勉強をしないといけないのかと言う質問に先生が返した答えが「職業の幅が広がる」。
僕にはそんな必要は無い職業はヨット乗りと決めていたのだから。

ヨット乗りで自分の船に乗りあっちへフラフラこっちへフラフラとさまよっていたのでは勿論食べていく事は非常に困難だと思う。

何が何でもヨットに携わって居たいのでヨット工房を始める。

勿論木の船でないと自分で次々と色々な船を作るのは困難なので木の船を作るヨット工房にする。
ところが松山の田舎で木の船が売れるはずがない、
ネットが無くて宣伝手段も持たなかった僕にはずっと仕事がなかった。

それでも30艇以上の木造ディンギーを作り続け、
他の外注出張仕事もこなし何とかクルーザーの受注が出来る所まで来た。

何艇かのクルーザーも作り。

自分の為の「花丸」も母の遺産で8年前に作った。
自分の為の船なので手抜きをして見切り発車で浮かべたので、
浮かんで直ぐはとにかく手直しが多くて毎日のように船に通った。

北海道函館も含む本州一周のシェークダウン。
その後も九州一周を終えた後いよいよ外洋でシェークダウンのつもりでニュージーランドの友人のところへ行く。
帰って来てからもシェークダウンでみつかった悪いところを修理する。

さていよいよ問題無いと思ったところで四国一周で土佐清水から小笠原父島への往復航海もする。

そろそろ世界一周をと考えている。
誰にも迷惑を掛けないで一人だけの力で船を運航してまともな旅が出来るのは70歳までと考えているので、
航海期間が4年とすると後5年以内には出航する事になる。

それにしても真冬でも暖房無しでヨットに泊まっていた昔の情熱は何処へ行ったのか。
暑いと言っては時間があるのにヨットに行かない、
寒いと言ってはヨットに行かない。

体力に合わせて気力に合わせてヨットを居心地の良いスペースに変える必要がありそうだ。
少なくとも毎日ヨットに行って少しずつ使いやすくして出来るだけ沢山の時間を帆走に使いたいと思う。

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