2000/12/11 萬丸航海記

 2000年12月7日早朝、浜松の高木さんと杉浦さんに送られて、浜名湖の橋の下をくぐってマストを立て直しておいてもらった萬丸は07:00丁度に出航しました。前日の天気予報では冬型は弱まり等圧線も間隔が広がって快適な航海が出来るはずでした。
 早速最初のワッチはオーナーの橋本さんと決まり(2時間交代のフルワッチです)、私はワンポイントリーフメインとNo3ゼノアセールを上げ終わるとする事がないので、ボンクで休憩しました。遠州灘は風力5から6で快適なセーリングとなりました。とても7メートルのクルザーとは思えない安定した走りでデッキに青波をすくうことは一度もありませんでした。サバニ船型の良さでしょう乗り心地も最高でした。

 翌朝には熊野灘(三重県の太平洋側)を通り過ぎて潮ノ岬が見えるところまで来ていました。途中で風が吹きつのりメインは2ポイントリーフ、ジブはNo4まで落としました。天気予報が ずれたというのでしょうか?前に「は」の字を付けると、はずれたになります。とにかく潮ノ岬までは強風で、萬丸にとっては快調な滑り出しでした。最高に風が増したときには、風力6オーバーで崩れた波の先から泡が白い帯となって何本も風下に白い筋が出来ましたが、萬丸は全く危なげなく波の上を快走しました。最高艇速は8ノットのサーフィングでした。FRP船特有の船体のねじれも、ぎーぎーとバルクヘッドが鳴る音もなく安心して波任せに出来る船です。木造船は良いなあと自画自賛のひとときでした。

 8日は潮ノ岬沖で逆潮に捕まって、しかも天気は予想通りの快晴微風となりました。結構岸沿いのこんなに長い航海だというのにオーナーの橋本さんは15リットルしか燃料を積み込んでおらず、これではセーリングしかないので、潮ノ岬を右に見ながら微風を拾いつつ同じ所で夕方になってしまいました。潮ノ岬灯台のすぐ下で、タックタックを繰り返しているときに、今航海の最大の思い出となった鯨に遭遇しました。ブシューブシューと息をしながら、左後方100メートルくらいの所までくると、どういうつもりか尻尾で5.6回海面を叩く動作を見せてくれました。鯨の本などに良くでているあの海面叩きです。どうということもない鯨の癖なのかもしれませんが、橋本さんと私は大感激。尻尾にフジツボか何か白い貝が沢山付いているところまで見えました。

 その後日ノ岬を狙いましたが、夜間航海の上本船航路に入ってしまい、前から後ろから本船だらけで、行き交うごとにとんでもなく眩しいスポットライトで照らされました。こちらも負けずにハロゲンライトでブリッジを照らし返しては、セールを照らして、ヨットであることを主張しました。彼ら本船にとっては、ヨットなど浮かんでいる動かないゴミに等しいでしょうから、よけてもらうしかありません。それでも9日明け方には日ノ岬をかわして、紀伊水道に突入しました。ここからが又微風で鳴門海峡の転流は14:00と岡山の大前さんがパソコンで調べてくれたのに、引き潮に入る1時間前の19:00の通過がやっとでした。あまりに風がなかったのでこの間に10リットル以上燃料を使い、今から風の弱い瀬戸内海だというのに残ったガソリンは4リットルという所でした。鳴門海峡は丁度潮止まりのようで、出船が待ちかまえていたように列を作って萬丸の横を通り過ぎて太平洋に出ていきました。考えてみると渦潮は見られませんでしたが、ジャストタイミングの通過だったようです。月明かりも幸いして何の不安もなく通り過ぎました。

 それから、小豆島までは瀬戸内でも結構開けた場所ですが、紀伊水道での興奮からか、睡魔が襲い眠いこと眠いこと、一人ワッチではとてもやれません。やっぱり二人は良いなとつくづく思いました。ワッチ交代の時の申し送りが、お互いに雑だと相手を非難したりもしましたが、片や一時も早く寝たい、片や起き出したところで、頭がもうろうとしている状態ですから、周りが本船だらけの中で弱い風を必死で掴むようなセーリングの状態では不安もあろうというものです。

 小豆島をかわして豊島を抜け宇野に着いたのは出航して3日と6時間が過ぎた12月10日の昼前でした。ここで宇野の大前さんの家の風呂を沸かしてもらってビールをたらふく飲みお互いの健闘をたたえ合い、萬丸談義に花が咲き、来週からの航海に夢を託して、一路JRで橋本さんは浜松に、私は松山に向かいました。

{以降は来週帰ってからのお楽しみです。}

 宇野港再出発は12月16日の土曜日でした。
 左から、私、オーナーの橋本さん、宇野の大前さんの3人が乗ることになりました。出発前の宇野港の桟橋に3人が揃ったところで、大前廻漕店の人に写真を撮ってもらいました。出発の時間は潮の満ち込みを大前さんに調べてもらって(瀬戸内海沿岸流況概要)朝08:00と決まりました。丁度潮に乗って瀬戸内海の潮が東からと西から交わる粟島付近までが満潮で、その後は引き潮に乗って西進し松山に至ろうという潮を読んでの航海です。瀬戸内海の航海では、潮が速いのでこれなしには、ヨットでの航海はしんどい物になります。私たちの航海は幸先の良い滑り出しで、風も穏やかそれでも対地艇速は3から4ノットの艇速で、2時間おきの3交代ワッチを組み、最初は橋本さん二番目は私、次が大前さんと決まりました。

 大前さんは食事当番も引き受けてくれると言うことで、全く料理をしない橋本さんと、カップヌードルに湯を注ぐだけを料理と思っている私には心強い味方が出来たと大喜びです。しかし、それは大前さんが船酔いをするまでの話です。昼飯は最高の
スパゲッティにありつけました。エーこんなにうまいスパゲッティがヨットで食べら
れるのと、橋本さんと私は大満足でした。ところが、チャイというインド風の紅茶を
入れていた大前さんが、シナモンを捜していて、急に船酔いになり何度も吐いて、も
う吐く物がなくなり黄色い胃液を吐いているのを見ることになったのです。昼食前の結構吹いているときには、全く酔わなかったのに、風が収まって本船のうねりと長い波長の波になったとたんに大前さんは気分が悪いとバースに横になりました。それからはバースから這い出してきては、風下スターンのパルピットにつかまって4.5回は嘔吐を繰り返していました。

 萬丸は満ち潮に乗ってすんなりと瀬戸内海の中央付近までは来ました。殆ど燃料を使わないで魚島近辺までたどり着いたことになります。瀬戸大橋の下あたりから急に風が強くなり、遂にセールは2ポイントリーフのメインとNo,4シブとなりました。瀬戸内海では冬の海でも波は立ちませんが結構風は強くなりました。その後 前線の通過を雲行きから知りましたが、急に風が止んで全く違う方向から吹き出したり、全く無風になったりの繰り返しをセールチェンジと回転を絞ったエンジンの機走で魚島に近づいたときには夜になっていました。瀬戸内海の冬のクルージングは海苔の養殖イカダがあちこちに新設されているので、夜間航海はしないことにしていましたたが、入港する港も知らない私たちは魚島と高井島の間を万全のワッチで通り抜けて、航海を続行することにしました。

 その後は来島海峡に入るのは怖いので、2週間前に瑤舟丸を廻航したときに西から東に抜けた大島と伯方島の間の狭い海峡に入りました。今度は東から西に向かってです。その前の本船航路横断の時にはやっぱり何艇かの本船にサーチライトで照らされましたが、もう慣れっこになっていました。狭い水路を抜けた後、刀剣の国宝で有名な大三島の南を通過しているときに、あんなに辛そうだった大前さんがよみがえり、今度は夕食にうまい鍋料理を作ってくれました。またもや酒とビールで嬉しい夕食です。大前さんの名誉のために言っておかないといけませんが、彼はいくら酔っぱらっていてもワッチを降りなかったのは大したものです。僕は船酔いの経験がないので気の毒ですが、船酔いをすると殆どの人が1週間くらいはドテッとバースに転がり込んでマグロと呼ばれる状態になります。

 夕食で酒を飲んだので、その後の来島水道の北の海域を抜けるときに、眠かったこと眠かったこと、私はティラーを股に挟んだまま突っ立って操船していましたが、あっちもこっちもから本船が進んでくるので、ハロゲンランプを振り回すような感じでやっとの事で起きていました。その後バースに転がり込んで、橋本さんが安芸灘を7ノットで快適にサーフィングをしている波音を子守歌に気が付いたら、もう柳原港の手前の「波妻の鼻」のすぐ前まで来ていました。たった2時間で何という進みなのでしょう。北条の僕のホームポート柳原港に入港したのは、2000年12月17日(日曜日)の朝05:00でした。宇野から21時間の航海でした。

ワッチ中の大前さん
瀬戸大橋通過後の橋本さん

このようにして、浜松から松山への萬丸の航海は無事終了しました。この後2.3日内に、橋本さんと大前さんに、航海の模様を投稿してもらった文を乗せます。お楽しみに。

2000/12/18 「萬丸航海記・大前 裕の場合」

 12月9日の昼頃、浜松から松山まで萬丸を回航していた池川富雄さんから宇野港に
立ち寄りたいので係留バースを確保して欲しいとの連絡がありました。萬丸のオーナーが仕事の関係で一度下船しなければならなくなったとのことでした。翌10日の昼前、小雨の中を精悍な顔つきのヨットが入港してきました。もやいロープを受け取る時に池川さんの顔を確認、さすがの彼も安堵の表情です。弊社の桟橋事務所前にあるポンツーンに無事に横付けした後、2人が握手をしながらお互いの健闘を讃えていたのが印象的でした。

 まずは風呂ですが、半年ほど前に近くにあった唯一の銭湯が閉鎖していたので、わ
が家の小さな風呂で我慢して頂きました。休憩時間に様子を見に帰ると、ホットカー
ペットの上でゴロゴロと寝そべり幸せそうにしていましたので一安心。人心地がつい
た頃、オーナーの橋本健さんから、ここからは3人で松山まで回航しませんかという
提案がありました。次の出港は、相談の結果16日になりました。

 萬丸は、私の所有艇と同じサバニ船形ですから乗り心地は良いだろうと思いました。しかも、池川さんの自作された木造船ということで興味がありました。それと私には試したいことがありました。それは、セーリング中のキャビン内で食事を作ることです。萬丸のギャレーは、キャビンの入り口の真下にあり、左右に足を踏ん張ることができそうです。しかも、常にスターンの開放感のある景色を眺めることができるのも好条件に思えました。私はろくに風の読めないヨット乗りですから、せめてキッチンから温かい料理を供給することでチームの一員になりたいと考えたのです。

 2日間の航海中の献立を考え、食料の買い出しをしました。池川さんからは、「い
くらなんでも積みすぎだよ」って言われましたが、萬丸には包丁と鍋しかありません
でした。他人の台所でまともな料理が作れたら一人前という話がありますが、他人の
ヨットの中で初めて料理を作るというのもかなり大変です。調味料など準備は怠りな
くしたつもりでしたが、出港して直ぐに積み忘れたものが多いのに気づきました。出
港時の天気は上々、微風で波も穏やかでしたが、ドリップのフィルターを茶こし器に
受けてコーヒーを入れる羽目になりました。昼食のパスタ料理では、チキンの固形スー
プが一つ無いために、あらかじめ考えていた献立の変更を強いられることになりまし
た。2人には喜んでもらえましたが、内心は自分のミスに苛立っていました。

 最初のワッチの後で、チャイ(インド式ミルクティー)を作っていた時に、何度も
狭い食料庫に頭を突っ込み、食材を入れていた袋を点検したにもかかわらず、シナモ
ンが見つからずイライラっとしたのが間違いでした。真上を前線が通過し、天候は雨
模様、気温もだんだんと下がってきました。次のワッチまでキャビンで毛布を掛けて
横になっていた時、突然寒気がして吐き気が襲ってきました。何度も外に飛び出し風
下に身を乗り出して吐きました。次のワッチまで約3時間。船酔いは何度も経験して
いましたが、今回のは少し違うなと感じていました。吐き気は一時的だし、思考力も
無くなっているのですが、船の揺れ自体が嫌ではなかったのです。

 次のワッチの30分前に身体を慣らすために起きあがりました。すでに外は暗くなっ
ています。交代前には、胃液しか出なくなりました。これで吐くものは無くなった訳
で一安心です。池川さんが「大丈夫?」って聞くので、「頭がダメ」って答えました。
舵は持ちましたが、橋本さんがワッチを手伝ってくれました。橋本さんは、映画・グ
ラン・ブルーでエンゾ役を演じた俳優のジャン・レノ似の潮っ気のある人で、突然の
風向きの変化にも的確に指示を出してくれたので難なく役目を終えることができまし
た。キャビンに戻って1時間ほど横になっていたら、なんだか身体が温かくなり体力
が回復してくるのに気づきました。

 「復活したので、夕食の準備をします」と2人に告げると、「雨も激しくなってき
ているし、もし食事を作ってくれるなら、ワッチを一回抜いてあげるよ」との提案が
ありました。インスタントご飯に塩を掛けて食おうとしていたようです。牡蠣と地鶏
の入った鍋料理を作り持参の塗り椀に入れて手渡しました。少し塩っぽかったかもし
れませんが、2人とも「美味しい、美味しい」と言ってくれました。しばらくは、ア
ルコールを飲む余裕も無かったのですが、ここで橋本さんは、ビールを、池川さんと
私は日本酒で気分転換です。

 本来だと次のワッチは、0:00から02:00まででしたが、池川さんが約束通りダブル・
ワッチをかって出てくれました。私は暖かい寝袋の中で池川さんの眠気と戦っている唄
を子守歌のように聞いていました。池川さんから橋本さんへの引き継ぎ時の天候は最
悪でした。池川さんはびしょ濡れのカッパを脱ぎながら、「手も足もシワシワや」っ
て呟きながらキャビンに入ってきました。最後の針路を決めるため、私の寝袋の上に
海図を広げ、現在位置の確認をしました。袖から水が滴っています。指示後、毛布を
掛けて寝ようしていましたが、寒さでなかなか寝付けないようでした。橋本さんも
寝起き直後だったので外の寒さに震えています。私は、ホッカイロを2つ手渡してあ
げられるのが精一杯でした。強風下では、素人同然の私など足手まといです。再度リー
フするには、ほとんど寝ずに針路を決定し続け、知力体力ともにかなり消耗している
池川さんを起こさなければなりません。なにが起こっても私の出番は無いし、橋本さ
んにも全幅の信頼を寄せていましたので、安心して次のワッチまで眠ることにしまし
た。

 04:00前、目覚めた時には、すでに風が微風になっていましたが、萬丸は、柳原港
の手前まで来ていました。凄いスピードで走りきったようです。もう安心です。池川
さんのホームポートに入港して、無事を祝って飲んだのはシナモンの入りのチャイで
した。2人とも大変気に入ってくれたようで、キッチン担当としてささやかながら面
目を保てたと思った瞬間でした。下船後、近くの温泉でガチガチになった身体をリラッ
クスさせ、池川さんの家で歓待を受けました。私など足下にも及ばない美味しい料理
の数々、この瞬間は何度味わっても良いものです。無事に連れて帰ってくれた萬丸と、
さまざまな自然の表情を見せてくれた海の神さまにも感謝です。

2000/12/20 「橋本健さんの萬丸航海記」new

「私も回航の乗組員に加わります あなたが艇長です」


理由(わけ)あって(人生 ワケアリ ばかりですね) 愛艇「萬丸」の売却を決意した ついては 松山に持っていっ
て 池川さんにお任せするのが最善策だろうと思い その旨を伝えた時の彼の言葉である
師走に23ftのセールボートで 遠州灘 熊野灘 紀伊水道 鳴門海峡 そして瀬戸内海と帆走することには 仲間
内からも疑問の声があがり 回航に誘った数人からも「お断り」の連絡があった やっと確保したひとりも仕事がはいり 結局は池川さんとふたりの回航となった 
萬丸は 二年前の やはり年の暮れに 駿河湾の大井川港から浜名湖までの回航中遠州灘で あわや遭難の
憂き目に遭っている その時は優秀な乗組員二人と一緒だったが 西からの強風と4〜5mの波で上りきれず「勇
気ある撤退」(どこぞの お騒がせ代議士のそれとは全然違います)を決めた Uターンに伴うジャイブも簡単なもの
ではなかったし 真後ろから押し寄せ追い越してゆく波上のサーフィングも気持ちの良いものではなかった・・・
ラダーの亀裂が見つかったのは 帰港後の各部点検の折である 無理して上り帆走を続けていたら 想像したくな
い事態に陥っていただろう
そんな経験を基に 萬丸は何の問題もないハルを除き 不安材料となるあらゆる部分を見直し補強・修正した だ
から 今回の航海も 問題はフネではなく 乗り手の問題だと思った
池川さんとふたりの航海と決まった時 「彼となら大丈夫」と安心と自信に満ち と同時に「あなたが艇長です」の言
葉に「彼となら大問題!」と一転不安と心配 自信喪失 ただ焦燥感に浸ることとなった
この意味がわからないのは 多分 池川さんだけだろう・・・そういう人です
確かに私は 萬丸の船主で 萬丸の乗船経験も誰よりもある(当たり前) しかし 洋上経験 帆走経験は 彼が
「月」なら私は「すっぽん」・・・この航海で 私は自分の無能を思い知り 自尊心はズタズタにされ 命はフネが救っ
てくれるとしても 陸(おか)に上がるのは 私の抜け殻だけだろう それでも私は行かねばならない! 「妻よ 止
めてくれるな!!」(因みに 我が妻に今回の航海計画を知らせた時 「気をつけてね」の一言 「行かないで!」は
ついに聞けなかった 彼女は 萬丸が嫌い いや好きだったのが嫌いになっちゃったのです  ここで冒頭の「ワケ
アリ」に ははぁー!と頷けないのは 多分 池川さんだけだろう・・・俳優の森繁久弥さん あの人は意中の人をク
ドク時はフネで沖にくりだし 水平線に沈む太陽をふたりで見るのだそうです そんな時 女性の貞操観念はどこか
にいっちゃうそうです・・・全然 関係ないことですが 一応池川さんのために書き添えました・・・)
かくして 12月7日を迎え 「すっぽん艇長」と 自他共に認める「ヨット一筋男」の萬丸回航のはじまり はじまり・・

この項 つづく・・・ですが 退屈でしたらやめにします    萬丸

2000/12/20 「橋本さん萬丸航海記」第二弾 new

今回の回航は 浜名湖から岡山・宇野港 そして宇野港から松山・堀江までの2レグで達成された
最初のレグは池川さんの そして 第2レグは大前さんの航海記に詳しく どこにも間違った記述は
ないのだが 何か物足りなさを感じる・・・それは何かと考えて ハタと気がついた・・・私のワッチ中の
活躍の描写が抜けている!!・・・・当たり前ですね ワッチ・オフは寝ているのだから・・・
しかし おふたりの記述で航海のあらましは十分伝わっている そこで重複と手前味噌の愚を避け
「すっぽん艇長の反省」をもって 航海記としたい
「あなたが艇長です」という文は日本語として文法的にも正しいし論理的にも齟齬をきたしていない
しかし この文は本当の意味・情報を伝えない 翻訳を必要とする


拙訳: 「お前 外洋帆走経験があるなんぞと でかい口叩いてるようじゃが どんなもんかワシが一緒        
に乗ってみてやろうじゃないの なぁ 海の上じゃ嘘はすぐバレルんじゃ ワシはなーんもせん
けんね なぁ おい ワシをクルーとして立派に使えるもんなら使ってみーゃ ワシを誰じゃと
思うとる? イ・ケ・ガ・ワ やぞー!」  
これが隠されたほんとうの意味・情報なのだ
素人離れした私は 即座にこれを理解し もはや「艇長」の座から逃れられないのを悟った
もしその時 鏡に映った自分を見たとしたら そこにいるのは醜く引きつった笑い顔の別人であったに
違いない

反省その1: 人は自らの経験を語る時 謙虚でなければならない 
あの時襲ってきたのは大波ではなく小波だったし 風力は7ではなく4であったかもしれ
ない キャビンが水に浸かったのも胸までではなく そうだ!くるぶしまでであった
生き残れたのは自分の判断のためではなく 全て他のクルーのお陰だ etc・・・
うーむ これが大枚を叩いてフネの製作を依頼した発注者に対する船大工の仕打ちか・・・
是非もなし!!     

2000/12/21 「橋本さん萬丸航海記」第3弾 new
 
実力が各段も上のクルーに対し「艇長の威厳」を保つ方法はないものか・・・たったひとつだけある

「食当の拒否」である 食事どころかインスタント・コーヒーのお湯一杯注ぐまい それはクルーたる池

川さんの仕事にしてやろう この方法はより一層自分を惨めなものにするだろう しかし キャビンの

中で船酔いにかかり その後の行程を「マグロ」となって過ごすよりは どれほどマシなことか!


反省その2: 船酔いは正しい判断の親の敵である

         洋上のリーダーは船酔いしてはならない 私は船に酔う 全快までに3日かかる時も

         ある こういう人は他人の命を預かるに不向きだろう

         池川さんは 船酔いしない



縮帆の機会は度々あった その判断は原則としては海況の変化がわかる当直の人間がすべきだろう

池川さんの縮帆のタイミングは早い なんの異存もない 一度 オフの時に縮帆のために起こされた

が その後風が強まろうが 弱まろうが 止もうが それは無関係だろう

私のも縮帆の時期を見計らう基準があって これまで致命的な失敗はなかったし 今回も夜中の

当直時 縮帆してもいいような状況で 「カン」に頼ってそのまま走り 距離を稼いだこともあった

「カン」は当たって事なきを得たが 間違いだと思う  「カン」は当たらないカンもしれない・・・?


反省その3: かぜ かな?と思ったら はい 縮帆!

            一粒 ワンポン  二粒 ツーポン

            ついでに 当直はゴム長を履くべき 夜中の思わぬ波の打ち込みや突然の雨でデッキ

         シューズは一瞬にして濡れ 当直を替わった直後にこういう事態に見舞われると寒さ

         は倍増 悲惨な目に遭う


燃料の多寡が問題となったのは 潮の岬をかわす時点だった 風は止み潮は逆潮 このままでは沖

に押し流される とりあえず機走して風をつかめる海面まで行こうという事になった 出港後初めての

機走だった 萬丸の動力は8馬力の船外機 積んだ燃料は15〜6リッター 半開で30マイルは走れ

る勘定だ これを十分とみるか 少ないとみるか 意見の分かれるところだろう しかし 今回は燃料

の節約のために殆どの行程を帆走し 多くのことを学んだ 結局燃料は余った


反省その4: 何故 機走あるいは機帆走しないか・・・動力音はやかましい エンジンの音を聞くため

         にセール・ボートに乗っているわけではない 出入港時も帆走でこなせたら それに越し

         たことはなかろうが そんな腕もないし 無風時に出入港できずに夜を迎えるのもつら

         い 動力を否定するものではないが あくまで補機と認識したい

         だが 瀬戸内にはいってから夜の本船航路の真中で無風状態に陥った時を思い出すと

         そうもいってられない 本船が必ず避けてくれるとは限らないからだ 帆走だけで乗り切

         った時の達成感も ただの自己満足なのかもしれない


  この項 つづく  

2000/12/21 「橋本さんの萬丸航海記」 第 4 弾 new

潮の岬からやむなく機帆走し紀伊水道に入り やっと風を掴めたのは もう日は落ちようとしていた時

だった 紀伊水道の帆走は 本船との行き交いを除けば 快適そのものだった 萬丸は走りに走った

池川さんに縮帆のために起こされたのもこの区間だった

「リーフのタイミングを逸しました ごめんなさい」池川乗組員の弁・・・逆ならいざ知らず 「月」が「すっ

っぽん」に なかなか言えることばではない 当然(?)縮帆を難なく終え 私は眠りに戻った

次の私の当直時に 全く逆の立場に立たされた アビームの心地よい帆走だったが 風が出てきて

艇速が増した 先ほど縮帆したときと同じような状況だ・・・以前の私なら「あの時より吹いていた」と

書いたかもしれない・・・ウェザー・ヘルムが少しきつくなったので メインを少しだした とたんにヘル

ムはニュートラルに近くなり 艇速に変化はない この辺がこのフネの というよりサバニ船型のたま

らないところだ 縮帆の判断を下すにはあまりにも心地よすぎた ハル・スピードを超えるんじゃないか

と思わせる艇速に対する期待と不安 人の心をもつ女性なら間違いなく貞操観念を捨てる場面だ

「舵は中立 波高くなし うねりなし デッキも波を掬っていない 風も当分これ以上にはならんだろう

縮帆の必要なし」・・・「すっぽん」の判断は結果としては 間違いではなかった が 今では 前述した

ように 「艇長」としては恥ずべき判断だと思っている 我々は命がけのレースを闘うプロではない

「かぜ かな?と思ったら はい!ワンポン」の標語をもっと早く思いつくべきだった


夜が明けると 風は止み 機走せざるを得ない状況になった というのも 岡山の大前さんから頂いた

情報で 鳴門海峡の転流は14:00 夕方までには海峡を通過する態勢を終えていなければタイミン

グを逸して 大きなロスになってしまう

機走およそ3ノットで一路 鳴門海峡へ ガソリンの残量も気にかかる 全行程で最も退屈で不安な区

間だったように思う 

鳴門大橋の橋脚の明かりがやっと見えてきたのは あたりも真っ暗になった18:00ころだった

 この項 つづく ・・・ですが 鳴門海峡通過の記述は池川さんの航海記とはちょっと違うものになりそ

                  です

2000/12/22 「橋本さんの萬丸航海記」第五弾 new

鳴門海峡: 大毛島東北端孫崎と淡路島・門崎との間の幅1300m の水路である 潮位は1〜2mの差 

潮流は通常7から8kn最速で10kn にも及ぶ 有名な渦は直径20mを超えるものもある 名にし負う世

界三大潮流のひとつとして行き交う船舶の勝手な通行を阻んでいる(因みに あとのふたつは北米西

海岸のバンクーバー島東側・シーモア海峡とイタリア半島とシシリー島の間のメッシーナ海峡・・・勉強

になりますね)

この海峡に架かる鳴門大橋の中央径間は876m でも実際に船が通れる幅はそんなにない どのく

らいの幅に見えたかは 後で恥じをかきそうなので言わない

萬丸は橋に向かって左側から近づいていった もうとっくに日は落ちて 本船も舷灯とマスト灯しか見

えない さぁ 鳴門大橋を正面に捉えた するとどうだ!橋を挟んで同じような距離に本船が真っ直ぐ

こちらを向いていることを示す灯火が無数に・・・いやいや こういう表現はいけない・・・かなりの数の

灯火が・・・これでは漠然としすぎてる・・・数十の本船の灯火が折り重なるように・・・この辺はで手を打

ちましょう・・・見えるではないか! どう見ても それら全てがまさに海峡を渡ろうとしている 転流の

情報が間違っていたのではないか?でも 艇速をGPSで確認すると 明らかに逆潮ではない 潮止ま

り?・・・それにしては こちらから向かう船が見当たらない どうなっているのだ?!どうすればいいの

だ?!「乗組員!引き返してもよいのだぞ」「今更?このまま行くしかないでしょ」「そうかね じゃぁ 行

こう!」作戦会議は数秒で方針を決した

その数秒の間に いまや 敵艦隊は明らかにこちらに向けて航行を開始したのが確認できた こちら

の艇速は相変わらず3kn前後 しかし 橋はみるみる眼前に迫ってくる もはや 引き返すタイミング

は逸した 海峡そのものは それ程距離があるわけではないのを知っていたから 「乗組員!エンジ

ンの出力をあげて 一気に通過せん!」「いや このままでいこうや」「そうかね じゃぁ そうしよう」

我々の息はピッタリなのだ

まずは 背後から来た味方(?)本船を先に行かせてその後を と思ったがそいつは あっという間に

行き過ぎてしまって 後に付いていくどころではない そうこうする内に行き交い船が萬丸の左右を通

過していきだした 我が旗艦を全く無視した走りだ 「おのれ!木造7mと侮って 愚弄するか?!!」

と通り過ぎた1隻を睨み付けてやったら なんと もうこちらも橋を通過し終わっているではないか!

つい数分前のあの高揚した気分はなんだったのだ? 鳴門の渦もどこにも見えない 橋から2マイル

も行けば そこはもう凪の瀬戸内海だった


この項 つづく・・・・ほんとにまだ 続けますか?  

(楽しく面白いことは、続けるんですよ!!)

2000/12/24 「橋本さんの萬丸航海記」 第6弾 new

鳴門海峡を無事通過し終えたたところで

反省その5: 通過のタイミングは果たしてベストだったのだろうか?確かに潮止まりであった事は

         小型船の しかも船外機船にとっては好都合だった だが潮止まりであったがために

         多くの本船と行き交うはめに陥った では もう少し早目の 瀬戸内に流れ込む潮が

         残っているうちだとしたら・・・後ろから来る本船にすぐ脇を しかも両脇を追い越され

         て行くのも辛い どちらを選ぶにせよ 夜間は避けるべきであった いい経験にはなっ

         が それは 次回通過の機会を得たら 必ず昼間の転流時期を狙った航海計画をた

         てるだろう という意味においてである


反省その6:  私には 通過を開始してから し終えるまで 艇速3knを維持する という選択肢は

          なかった 私ひとりなら全速に近い艇速で一気に通過しようとしただろう 危険海域
             
          から一刻も早く抜け出たい一心で・・・だが よく考えてみればすぐ脇を通る本線の引

          波で船外機がキャビテーションを起こし 望むほどの艇速はでないだろうし その苛立

          から精神の余裕と安定を失うかもしれない そう考えると 池川乗組員が採ったように

          ゆっくりと一定の速度と進路をたもって 威風堂々と行き交う方が相手の本船にとって
    
          も都合がいいように思う 情け無いのは 全速前進の頭しかなくて 他の選択肢をも

          てなかったことだ いつも複数の選択肢を用意でき それぞれの選択肢がもたらすだ
         
          ろう結果の予測と 自らが最善と考える選択肢をもう一度客観視できる冷静さがほし      
いものだ


鳴門大橋をくぐり抜けるのに髄分時を要したふうに思えたが 池川さんのワッチ持ち時間はまだ半分

ほど残っていた 萬丸は二十数マイル先の小豆島に向け針路をとった



夜の当直も三日目にはいると 二時間がとてつもなく長い時間に思えてくる 逆にキャビンで仮眠を

る二時間は瞬く間にすぎる 極寒からは程遠いもののやはり師走の洋上の夜である それなりに涼し

い にもかかわらず眠気は確実に襲ってくる 亡くなった母の口癖「唇に歌をもて・・・」を思いだす・・・

あっ すいません 母はまだ生きてました・・・兎に角思いつくままに歌を口ずさんで眠気を追い払う

小豆島まで残り数マイルのポイントだっただろうか 池川乗組員から当直の引継ぎをおこなった さす

がの彼の一刻も早くキャビンに潜り込みたい様子だ それでも海図を開いて現在の位置と針路の確

認をしないわけにはいかない 池川乗組員海図をの現在位置を指差して「えー 今 ここなんよ ここ

から ピーッと280度でここまでいって そこまで来たら330度に変針して ピーッといってピーッと行っ

て島がグチャグチャあるとこを ピッ ピッ ピッ って通って 目的地はここの宇野港だから 島に近寄

ったらいかんよ 網があるからね 本船航路は本船いっぱい 気をつけてね 燃料なくなると港にはい

る時困るから・・・わかってるね ほんじゃ おやすみ ああ ねむ ねむ・・・」と言って キャビンに消え

ていったのであった

ピピピのピーッ とは一体何だ??!! 風もない エンジン使用不可でどうやって ピピピのピーッで

行くの? そもそも 夜の瀬戸内のセーリングは網と本船で危なくて とてもやれない と言っていたの

は池川さんじゃぁないですか?!嗚呼!おまけに あれほど明るく輝いていた月もいつの間にか雲に

隠れてしまっているじゃぁないですか!・・・私は抗議したつもりだった しかし それが言葉になってい

たかどうか・・・キャビンに隠れた我が艇の「月」からの返事は 「ゴーッ」という鼾だった

考えてみれば 私の都合で10日の遅くとも夕刻までには 岡山の宇野港に入らなければならなかった

のだ 抗議が池川乗組員に聞こえなかったのは幸甚だった と我を取り戻したのはその悲惨な状況に

投出されてから数秒後だった 私としたことが!

この時の当直の二時間を詳細に記述すのは気が進まない それは恐らく愚痴と泣き言と呪いの言葉

に満ち満ちて 折角のこの格調高い航海記を台無しにしてしまうに違いない

要するに 雨と寒さと無風と本船の引き波に悩まされた二時間だった・・・これ以上でもこれ以下でもな

い・・・大した事なかったみたいな気がする 「時」の癒しの力を感じる

長い二時間が過ぎて 当直交代の時がやってきた 私は優しく池川乗組員を起こすと まだ眠気覚め

やらぬ彼の前で海図を広げ「今 ここね ほら右手二時方向に見えるのが小豆島の灯台 左手二時方

向のが四国側の灯台 このまま280度で ピーッと行って両方の灯台を正横に見たら ピッと320度

に変針して ピーッ ピーッ と行くうちに夜が明けるからね 後はよろしく おやすみ ああ さぶ さぶ

ねむ ねむ」と 十分な引継ぎを行ったのち 眠りについた


この項 つづく ・・・次回でやっと宇野港に到着しそうです 

 
 
2000/12/29  「橋本さんの萬丸航海記」 第7弾 new

当直の交代を告げられコックピットに出てみると 既に夜は明けていて 右手には

ゴミ投棄で有名になってしまった豊島(てしま)が迫り 左手には男木島(おぎしま)が見えた

ここまでくれば目的地の宇野港にはその日のうちに入港できるのは確実だし

海が静かなのも手伝って 何とも言えぬ安堵感に満たされた

そこは備讃瀬戸航路の中だったが この先針路を北よりにとって 井島を右にみて

左手の家島の先を西進すれば宇野港に入れる

ただ この辺は大小様々な島が集まっていて それらの島々が洋上からは折り重なって見え

しかも 見る位置によって島もその姿を変えるので 船位の確認は怠れない

潮の流れもきつくなり 風も息をしている 燃料の残を確認して風が止んだ時は機帆走にする

宇野港入港は12月10日の昼少し前だった


三日と6時間あまりのノン・ストップ航海を振り返ってみると 兎に角無事だったのは

池川乗組員のお陰だった すっぽん艇長の用意周到さを欠いた はとんど航海計画というものの

無きに等しい回航を無事故でひとまず終え その「seamanship」を見せ付けながらも 私を

「抜け殻」にせずに達成感と満足感に満たして 陸に上げてくれたのも彼だった

確かに不安な場面はあった しかし 命の危険を感じたことは一度もなかった

天候にはおおむね恵まれた しかし やはり師走の海 吹かれることもあった 本船とも髄分行き交った

鳴門海峡の夜も通過した その中で 一度もフネとヒトとを危険な目に遭わせないという技術は

賞賛に値する と私は思う 危険からの脱出の技術も確かに重要だが 危険そのものを回避する

技術の方が上等だろう それを体験させてもらったお蔭で わたしも「すっぽん」から「亀」に昇進した

(但し 自分で自分で昇進させた事をお断わりしておく)

ただ 「亀」から連想される 鈍足 はいただけない 鈍足は危険の回避と危険からの脱出の両方にとって

大敵になることしばしばだ できれば 着実に前進するあの「亀」だけを思い浮かべていただきたい



宇野港〜堀江の回航は 私の都合で私はフネを降り池川乗組員が艇長に昇進し 大前裕氏をクルーと

してなされるはずだった しかし 私の「ここまで来たんだ なんとか最後まで・・・」の思い断ちがたく

結局 日をおいて3人による回航となった 我儘をこころよく聞き入れてくれたご両人に感謝したい

(どうして 池川さんの時は「乗組員」で 大前さんは「クルー」なんでしょうね?)

この航海中 大前さんは船酔いに苦しまれて たいそう気の毒なことをしたが 厨房担当として必要

且つ充分な役割を果たしていただいた 料理は掛け値なし 美味かった!

またまた・・・少々口惜しいが・・・池川乗組員のお陰をもって 一日半の航海を無事終え 堀江は

柳原港への入港は17日の早朝5:00であった



池川富雄・大前裕(ひろし)考      あとがきにかえて


私としては 随分長い作文となった 日頃作文とは縁のない生活故 航海記の依頼には躊躇したが

命の恩人と宇野で また松山までの航海で一方ならぬお世話になった人の「書け!」の一言には

逆らえ難くパソコンに向かう事となった 当初はお二人のみを読者として この航海を振り返り始めたが

嘘か真か 他の見ず知らずの方もお読みになっているとか そこで 私なりの お二人の人物考を

ご披露するのも無意味ではあるまいと考え あとがき に代えさせていただくことにする


池川富雄: 「seaman」 である その意味するところは冒頭に辞書から引用しておいた

察するに 彼の「seamanship」は三昧(ざんまい)によって得られたのではないか

三昧とは要するに「ボケ」ることだ 色ボケ 金ボケ etc・・・ 無論池川さんの場合は「ヨットボケ」

「ボケ」と聞いて侮ること莫れ! 私の稽古事の師匠によると ボケて 即ち 三昧の境地を経て

初めて達人の域に達するらしい 四六時中ひとつのことに心を集中し 工夫を重ねることによって

のみ余人の及ばぬ技が無意識のうちに繰り出される・・・

かくして 「すっぽん」は「亀」となり かつての「乗組員」・「三昧の人」を「師匠」と呼ぶに至れり


大前裕: 大前さんと知れ合えた事はこの航海の大きな収穫のひとつである

鳴門海峡通過の折 潮の転流情報に間違えがあるのでは・・・と思ったのは大前さんと知り合う

前のことである 知り合った後のことであったならその疑問は脳裏をよぎることさえなかっただろう

もし ほんのちょっとでも疑問を持ったとしたら・・・「走れ メロス」を思い出す

私は大前さんにこう言わなくてはならないだろう 「裕さん、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。

私はこの三日間、たった一度だけちらと君を疑った。生まれて初めて、君を疑った。君が私を殴って

くれなければ、私は君と抱擁できない」・・・なんてね(よくわからない人は「走れ メロス」太宰 治 著

 新潮文庫 を読んでください)

そんな人です 大前さんは  願わくば また愛艇の一時係留をお願いする日が訪れんことを!



素人の取り留めない作文に最後までお付き合いくださった方々に 感謝!!!


                                         おしまい

         萬丸

(ここでこの面白い航海記を終わらせたくない‥‥ 宇野 松山間の 亀 艇長の活躍が抜け落ちているのではないかという読者のご要望により、橋本さんに再度お願いしたところ、遊びすぎて忙しいので2月まで待っていただけないかという事でした。
以降は2月のお楽しみです。)  

この 「萬丸」 オーナーも言うとおり訳あって売ることになりました。

売り急ぎません。素晴らしい船です。

本当に気に入ってくれる人があれば売りたいと言うことです。

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