2001/1/30  遭難とSOS

 25年前のアメリカの状態が、日本の外洋ヨットの世界にも押し寄せています。

現在単独で太平洋を渡ったヨットの数は100を越えているでしょう。何しろ誰でも

行こうと思えばいける状態が整ってきたわけです。良いことだと思います。船も

航海術も、昔と比べて長足の進歩を遂げました。今から行くぞと思えば出かける

事が出来る船と環境条件の整った余裕のある人が増えてきたわけです。ヨット乗り

にとってよき時代が訪れたと言うことです。

 そこで益々遭難騒ぎは増えてくると思います。昔サンフランシスコで今から

メキシコに行こうと思うのだが行かないか?と居酒屋で初めてあった人同士が誘い

合って毎週のようにグループで外洋に出ていって、遭難してはコーストガードに

救われて帰って来ていました。コーストガードに御礼の挨拶に行って、

コーストガードのお姉ちゃんと仲良くなって、今度は二人で出かけたと言うのまで

ありました。直ぐには帰ってきませんでしたから、彼女はまともな乗り手だった

のでしょう。

 先ず外洋に出かけるのに、お金を企業や沢山の善意の人から集めるというのが

間違っています。そんな暇が有れば船を整備しなさい、腕を上げなさい、自分を

鍛えなさいと言いたいです。何の目的もなく帆走することを楽しむのが目的の

ヨットで最初から金や物を人に何とかして欲しいはおかしいのです。あらゆるスポーツ

の中で最もスポーツになりにくいのがヨットのです。私はヨットをスポーツだとは

捕らえていません。人より速く走る事を目的のレースは、本来のヨットからは

かけ離れた物なのです。声は大きいし記録は残るし、多くのヨットのニュースを独占

するのは、スポーツとしてのヨットなのですが、一番人口の多いピラミッドの底辺

のヨット乗りは、本来の目的を持たない船の運航を楽しむことを楽しんでいます。

自己責任で楽しむのですから、レースと違って救助を念頭に無理をしたりはしません。

お金も物も名誉も地位も何も通用しない海に行くのです。

 さて本題の遭難とSOSですが、これが遭難だとはとても言えない状態で、色んな

人がSOSを出しています。有名無名のヨット乗りと称する人たちが、命に

別状無いのにもうだめだと思って遭難信号をいとも手軽に発信してくれます。

水が入ってきたら汲み出す。壊れたら直す。こんな外洋では当たり前のことも

出来ない人が、遭難信号だけはまともに使える物を持っていくのですからいけません。

日本の感覚で行くとその内救助も有料になるかも知れません。世界的な感覚

では絶対にそうはなりませんので、エコノミックアニマルの日本人には

益々甘えが出てくるのでしょう。私も遭難しないとは言い切れませんが

遭難信号を発したときは、もう体も船もずたずたで助かるかどうか解らなくなった

時だろうと思います。経験が無くて言っているのではありません、直ぐ隣に死が迫って

来ても、それと対峙して最後まであらゆる手を打つことを放棄するなと言っているのです。

 あまりにも簡単にSOSを発信し、それを当たり前だと認める社会がおかしい。

一切セールをあげることが出来ないような嵐は、どんなに続いても4日です。

まあこれは私の経験ですから、1週間もは続かないと言うことにしておきましょう。

必ず凪はやってきます。それまでに修理不能で沈むようなダメージを受けたか、

体が怪我や病気で動かなくなったか、それを総合的に判断できる自分で有ったか、

今や衛星通信のおかげで遭難信号を出せばたいていの所に短い時間で救助には来て

くれます。しかし、外洋ヨットは治外法権の独立王国なのです。独立王国の王様が

それで良いの?権限ばかり持っていて責任はどうするの?と言いたいのです。

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