50 女とヨット(2002/01/11)

おっと興味津々で読み始めた方はごめんなさい。
キャピキャピのヨットのツマの様な女の話ではありません。

色々な人にヨットを始めた理由を聞いたところ、
ヨットに乗ると女にもてるだろうと思って始めたという正直な意見もたくさん聞きました。
確かに女性がいるヨットは華やかで良いと思います。
でも今回はそんな話ではありません。
私の知り合いの卓越した シー ウーマン の話です。

Yannick


2週間くらい前に来たYannickさんの写真


名前をYannick Wakelam さんと言うフランス人女性です。
彼女と私が知り合ったのは25年前の南太平洋のマルケサス諸島(タヒチの少しアメリカ寄り、フランス領)の小さな島でした。
Yannickさんは32feet の「ジョナサン」という船でフランスから世界周航の途中で、
島の小学校の先生をしていました。
島が気に入って、
半年も先生をしていたので女性初の単独世界一周の記録を平気で他の人に譲った人です。

私がその島に入港したときには、
ヤニックさんの船ともう一艇アニック(女性)さんとジョンクルードさんという夫婦の鉄船が有っただけでした。
私は彼らとすぐに友達になって私の船にも乗ってもらい、
私も彼らの船に乗せてもらいました。
毎日泳いでは美味しいココジュースを飲み、
夕食に誘ってもらい、
夜遅くまで話し 楽しい時を過ごしました。
あっという間の1週間でした。

別れ際にヤニックさんのヨット「ジョナサン」のエンジンが壊れているから、
日本に行って新しいヤンマーを積むから待っていてと言われました。

それから1年半後に彼女の「ジョナサン」は単独エンジン無しで本当に東京湾本牧沖に現れたのです。

小笠原父島に立ち寄り大歓迎を受けて、
小笠原から横浜に行くからと言う連絡は受けていたのですが、
当時 無線も持たず、天測航法で速度も位置もはっきりせず、
連絡の取りようがないヨットを待つのは大変でした。
東京湾入り口の観音崎灯台の灯台守のおじさんと仲良くなって、
ずっと何日も灯台の上から望遠鏡で小さな「ジョナサン」を探しました。
1週間くらい経った朝ついに「ジョナサン」を東京湾口に発見したときは、
うれしくて飛び上がりそうでした。

(2002/01/03)

横浜 

早速横浜に飛んで帰り、
当時仕事で乗っていた52feet ketch 「エリエール」を出航させて本牧沖へ迎えに出ました。
ヤニックさんに言わせると25feet「鴎盟」(おうめい)に乗っていた私が52feet で出迎えに現れたのだからびっくりして人違いだと思ったそうです。
This is Tomioと言っても私の顔を見るまでは最初ポカンとしていました。

とにかくバース(停泊場所)に引き込んで、
後は積もる話、
ビール片手に錆び付いた私の英語とフランス語訛りのヤニックさんの英語でおそくまで話しました。
当時彼女は35歳くらいのバリバリのセーラーで、
私も28歳お互いヨット乗りなのでヨットの話は尽きる事がありません。

今一番困っている事は何かと聞いたら、
爪と肉の間が痛いというのです。
早速翌日医者を訪ねたら、
丹念にヤニックさんの指を調べた末、
きれいに洗いなさいと言われました。
不潔にしているからばい菌が入ったと 只それだけでした。
彼女の航海に感動して、
診察料は無料にしてくれました。
流石にパワフルなヤニックさんも女らしく恥ずかしがっていました。

もっと凄いのは彼女の足です。
素足でずっと過ごしたから ぞうさんの足のように足の裏が強くなり、
私など靴無しでは痛くて一歩も進めない珊瑚礁の上を素足で歩けるというのです。
日本では駅でもどこでも通路に痰を吐いているので汚いと裸足で歩くのは直ぐに止めましたが、
とんでもない女性が居たものです。

その後目的のヤンマーディーゼルの2GMと言うエンジンを積む事になったのですが、
彼女は掛けをしようと言い出しました。
東京のヤンマー本社へ行って、
エンジンを長距離航海テスト用に無料でくれるように言うから、
もしくれたらビールを一本おごれと言うのです。
私は先ずくれない方に掛けて彼女からビールをせしめました。

ヤニックさんはショーツとラバラバと呼ぶシーツのような洗いざらしの派手な模様の布一枚の姿で平気でどこへでも出かける人で、
これは門前払いだなと思っていたのですが、
ヤンマー本社の社長室に通されたそうです。
無料では無かったが、
工場出荷価格で手に入れて帰ってきました。
凄い行動力です。

小笠原父島でのヤニックさん   父島のインテリ漁師 中島尭久さんのメールから

(2002/01/16)1

ヤニックさんはもう父島ヘきた時から何年たっているのでしょうかね、
沖出しのときは何日ぐらい滞在したんだっけ、
でもいろんな事をして遊んだね、、
ジョナサンでデイクルーズをしたときなど菅野とタバコをわすれて港口で引き返せと要求したら 
アナタガタノケンコウノタメコノママチョクシンシマス、といわれてその日は禁煙、
辛かった、

スモールロープをもっていないんだ、
といわれ近くの停泊している内地のマグロ船からマグロ縄をかっぱらってきてあげたら
彼女はその船の方へ縄を捧げ持って アリガトー、
出航の前夜 セールの点検を手伝ったら
メインセールに大きなほころびがあったので深夜までかかって2人で修理しました、
おいらのいいかげんな縫い方にとても喜んで 
ミスタータークンハホントノトモダチ、といってくれましたよ、

出航のとき船が離れかけたとき 握手しようと手を差し伸べたら
そのまま船に引っ張り込まれあやうく南半球まで連れて行かれるところでした、
カップラーメンを食後のカップをトイレがわりに使うためワンカートンもたせたりね、 
なつかしいな、元気でいてくれるといいけどね、
う〜ん20年ぐらい経つのかな、 まさに光陰矢のごとしだね、 オイラたちもジジイになるわけだ、

(2002/01/06)2        父島のインテリ漁師 中島尭久さんのメールから

う〜ん、ヤニックさんの思い出ね〜、彼女のお陰であたしゃ池川富雄という面白い男
に出会ったんだね〜、
これはあなたと彼女について話た事と重複するけど、ま、いいか、
たしかあたしが一人で漁に出て、帰港したとき漁港の荷揚げ場の前の泊地ではない航
路筋に停泊しているヨットがあったのよ、
停泊場所を移動するように注意しようと近づいたらいきなり真っ赤なビキニの白人女
性がデッキにあらわれ、当時は小笠原にも女は少なかったので ショックをうけたの
よ、ま、これはあたしがスケベだからかも、はは、、
話し掛けたらチンプンカンプン、とにかく手まねで移動させ、後刻その外航船の停泊
地にいきました(もちろん乗っているのが女だったからです)フランス語も英語もだ
めなあたしは体全体をつかってそれこそ手まね足真似、まるで阿波踊り並のボデイラ
ンゲージを駆使してコミニュケーションをはかり、その結果 彼女はフランスから大
西洋、パナマ経由、太平洋を超えて父島へ、
ここであたしを感動させたのは、父島に寄港するシングルハンドのボートはたまにあ
るけど、普通は男がスキッパーの数人乗りのボートがほとんど、たいていレーダーや
ロランなどの航海計器を備え便利なクルージングボートがほとんどなのに
なんと彼女のボートを見せてもらうとエンジンは装備されてなく 航海灯などはケロ
シンランプだし トイレもなくそのスペースは物入れになっており、トイレはどーす
るの?と苦労して聞いたら、トイレはゼノアの向こうです、とのこと、またまた感動
したね、
何故なら当時あたしも自分の船にトイレなど装備するよりもっと大切なものを積むほ
うが大事だったから、トイレはブルワークで上等だと思っていたからね、
食料が面白かった、一緒に食事してもあたしには初体験の手伝いをさせられなにがな
んだかわからないものを作らされ
出来上がったらマヨネーズだった、とか また 何処かの南の島から積んできた大量
のココナツをつかって妙な料理をこしらえたり
ギャレーの下の戸棚から 発砲スチロールのトレイに栽培しているモヤシを これは
わたしの畑!これには笑ったな でもその必要に迫られた工夫など、ほんとうに感心
したね、
やはりなんといってもアメリカやカナダの植民地などをイギリスと戦いつつ獲得した
昔の海洋国家たるフランス人の血が流れている
その海に対する自信や謙虚さ、素晴らしいね、 
現在の日本のヨットマンと称する連中は足元にも及ばないと思ったよ、
帆走とは本来 こうあるべきでしょう、便利で楽に海にでたければ高速のパワーボー
トででればいいんだし ましてや生半可な能書きをこねる必要もないしね、
今でも若い衆たちに彼女の話をするけど、あたしのふしくれだった手をみせて 彼女
の手はこんな手だったぜ、などといってます、

日本の何処へ行くのか?との質問に やたらに トミオがなんたらトミオがかんたら
 ミスターヤンマーがどうしたこうした、
と言うので だいたいのとこは納得しました、  そして彼女は出港していったので
あーりました、
横浜へ行ってからまたエピソードがあるんだけど 今、クルーが仕事で呼びにきたの
で行かねばならぬ、

 

(2002/02/23)3  父島のインテリ漁師 中島尭久さんのメールから

彼女との横浜での思い出といったって 記憶にうすれてしまったね、
父島で彼女を送って数日を経てあたしも上京しました、
なんの用で行ったのかわすれましたが、

岡本造船所内のハーバーでしたっけ貯木場のような材木がういている水面にジョナサンが舫ってあって
彼女が満面に笑みを浮かべて迎えてくれました、
言葉は無し、手まねだけ、はは、、でもないか、

確かその日だったと思うけど、そこへ下駄をはいた顔が四角い妙な男が現れました、
この下駄だけはなぜか記憶にはっきり残っています、
He is Mr Tomio! This is Mr Ta-kun fisherman と引き合わされ 
こうしてあたしは四国産の愉快な この船ばかり作って海にでないヨット乗りと友達になったのです、

早速 飯を食おうという事で何をご馳走してくれるのかと 
この小笠原の田舎からでてきた零細漁民は横浜だからこれは豪華な中華料理かな 、
と期待して どこへいくの?と聞いたら 曰く、Little tip restaurant !!

その後度々ジョナサンをおとずれ何度か食事をしましたが ある日 今日のディナーはポトフでーす、とのたまい
ビーフを切り始め お!豪華版だ、と驚きました、
食事がはじまって鋏をもたされ鍋の中のキャベツが糸で縛ってあるのを Cut Cut,,と切らされ 
This is GUMI ! GUMI ! と言うのが判らず 
はて?グミとは何であるか、と沈思黙考 そのうち会話の中に Garbage という単語がでてきたので 判りました 、
八百屋でキャベツの外側の葉を店に出すときむいてすてる部分だった   もちろん只です、
それでは このビーフは と聞く勇気は流石に出てきませんでした、

また他日あたしの友人宅へ招待されたので彼女をさそって川崎までいきましたが 
流石にお出かけとなるとカジュアルですがきまっていました、
マリンルックでブルーの横縞のTシャツホワイトジーンズ赤いバンダナを小粋に首にまいて、
お〜フランスの船乗りだ、とおもったものです、
川崎の田吾作の家の連中をあたしのホラと彼女のフランス語で 煙に巻いて意気揚揚とひきあげました、
このぐらいしか記憶にあ〜りません話も前後しているかも 

では  股  こんどこそ明日 寅の刻 港を出でまする、

 


再び横浜

ヤニックさんはジョナサンにエンジンを積む仕事もあり、
その後約1年横浜に滞在しました。
その間の思い出の多いこと、
彼女の思い出とともに横浜での時は過ぎて行ったように思います。

生け花を習ったり茶道を習ったりフランス語を教えたり周りの人との交流も、
私の知らない面で沢山持ったようです。
一緒にいると周りの人みんなが楽しくなるような人なので、
彼女のジョナサンには来客が絶えませんでした。


(2002/03/04)

横浜から広島県大崎上島へ

さてジョナサンに岡本造船で2GMのヤンマーディーゼルエンジンを積み込んだのですが、

船体水面下が完全にオズモシスにやられてゲルコートが浮き上がっている、
船内のスターン物入れなどの船体内側が見えるところの 樹脂が白化して、
ガラスが浮き上がりぱさぱさと取れだしいる。
これを直さないと外洋を走れる船ではない。

ヤニックさんジョナサンは死にかけているよと私が話すと、
ヤニックさんはしくしくと泣き始めました。

私たちは一緒に命がけでここまできた、
ジョナサンを放ったらかして帰るつもりはないと 言うので、
それでは直さないといけないが、
それはとんでもない労力とお金のかかる仕事なので、
自分でやるしかないでしょうと言うことになりました。

岡本造船所ではそんなに長い期間彼女のジョナサンを陸置きしてくれる場所もなく、
それではと言うので仕方なく私が以前勤めていた兼松マリンがあった
大崎上島にジョナサンを運んで上架して彼女が一人で直すことになったのです。

横浜から大崎上島への廻航は私とヤニックさんですることにしました。
ヤニックさんと食料などを買い込んで、
いざ出発 今度はエンジンもついているので、
東京湾も難なく抜け出しました。

そのころはまだ六分儀による天測が自分の位置を知る手段だったのですが、
彼女の天測は素晴らしく正確で、
何も不安を感じさせませんでした。

そうそうジョナサンは32フィートもあるのにトイレがない船なので、
トイレの時が困るのです。
前を向いていてと言って、
毎日スターンパルピットにハーネスをしてぶら下がるのですが、
まさかヤニックさんはジョナサンに男を乗せて航海するとは思っていなかったのでしょう。

一度私はどじを踏みました、
準備したトイレットペーパーを使わない内に海に落としてしまったのです。
オーイ ヤニックさんトイレットペーパー海に落としたので取ってくれない?
と言うと前を向いたまま上手にトイレットペーパーを手渡してくれました。
後で、Tomio は トイレットペーパーをよく海に落とすからあんなにたくさん買い込んだのかと言われました。

今みたいに情報がすぐつかめるような携帯電話もなく、
鳴門の瀬戸を抜けるのに3度もトライしては潮待ちをし、
やっとの思いで通り過ぎました。

大崎上島では最初に明石港に入港しました。
新しいエンジンなので、
入港前に基本通りクラッチテストをしようと言うことで、
試して良かった、
クラッチが抜けない、後進に入らないと言う状態がわかりました。
クラッチレバーとワイヤーを繋ぐピンが抜け落ちていたのです。
すぐに直ったのですが、
その事だけでえらくヤニックさんに感謝されました。

ヤニックさんはそれから3年どうしようもなくなったFRPのジョナサンを よみがえらせたのです。
表面から3ミリをゲルコートと一緒にサンディングで剥ぎ取り、
上向きの積層でガラスマットを2プライ重ね、
その後にゲルコートを塗って磨き出すという気の遠くなるような作業を、
一人でやり遂げたのでした。

彼女は元々フランスでは小学校の先生をしていました。
でもそれではヨットを買うお金が貯まらないので、
カジノのディーラーを2年間やったそうです。
若かったからできたが頭の痛くなるようなうるさい仕事だったと言います。
そこで貯めたお金を全部ポンドに替えてブラジャーに突っ込んでイギリスに渡り、
お目当てのニコルソン32 (ジョナサン)を手に入れたのだそうです。

もちろん中古艇で買ってすぐに乗り始めたそうです。
FRPの艇がオズモシスに犯されるというような知識は持っていませんでした。

私が3年目に大崎上島で会ったときにはもう日本語もほとんど完全で、
二人の会話が英語で通じなくなると、
すぐに彼女が日本語を話しました。
最初から日本語で話せばよいのに、
相手が私だとやはり英語がでてくると言うことでした。

そんな彼女も長くいた日本を離れて、
やがて世界一周の残り1/3の航海に旅立ちました。

大西洋も太平洋も一人で渡った彼女ですから後はそんなに不安ではありませんでしたが、
いったいどこまで行くのだろう、
地球を何周するつもりだろう。
といつもヤニックさんのことが気がかりでした。

new

ニュージーランド (2002/03/05)

それからフランスに帰ったという連絡をもらいました。
ああヤニックさんの航海も世界一周で少し休憩かなと思ったのもつかの間、

また直ぐに私たちが最初に会ったマルケサス諸島まで、
大西洋 太平洋を越えて航海していました。

彼女が最初に世界一周に出発した女性なのに、
途中であちこちと遊んでいる内に、
世界初の単独世界一周の女性はイギリス人になっていました。
じゃあヤニックさんは二周するのかなと思いましたが、
彼女はそんな記録など気にする人ではありません。

前の航海の時に知り合ったヘンリーさんというロシア系イギリス人に結婚を申し込まれ、
彼に会いにまたマルケサス まで行ったと言うことです。

そこで彼の自作したヨット「オピキュラム」(40フィート)で生活することになり、
ヤニックさんと彼女のジョナサンは別れることになりました。
あんなに長い間命を守ってくれた船との別れは辛かったと思います。
それでもジョナサンを気に入ってくれた若者に良い値段で引き取られていったそうです。

その後二人の間にはNOAH君と言う男の子が生まれました。
彼女が40歳の時でした。
40歳でも子供が無いより有った方がいいでしょうと私に手紙が来ました。
彼は私の次男 真帆(まほ)君と同じ年です。
今は19歳になっています。

その後3人で航海をしていましたが、
ニュージーランドに移り住んだという連絡がありました。

何年か連絡がなかった後白血病になったという手紙が来ました。
骨髄移植を5年ごとに繰り返すしか直る方法は無いという病気です。
しかも適合する骨髄を持った人に会える可能性はニュージーランドでは極端に少ない。

白血病は血液のガンなのです。

もう会えることはないだろうと思うとどうしても会いたくなり、
子供たちを2週間学校を休ませることにして、
一家5人でニュージーランドへヤニックさんに会いに行ったのは7年前でした。

毎週1回病院に通いながら、
骨髄移植はできないで居ました。
放射線治療で頭の毛が抜け替わり、
前とは違うカーリーヘアーになっていました。

あの何事にも屈託が無く明るかったヤニックさんが、
見るからに病気でしんどそうに見えました。

それでもいろんな人に支えられて、
西欧医学以外の方法をしっかりと身につけていって居ることに驚きを感じました。
ヨガ、瞑想、座禅、断食、菜食、 有りとあらゆる東洋的な方法で病気に挑み始めた
ヤニックさんに もしかしたら白血病だって克服できるのではないかと言う感じを持って、
明るくさよならが言えました。

そして、そのまま骨髄移植もしないで7年間生き延びたのです。

2週間ほど前に最高の手紙を受け取りました。
白血病が治ったというのです。

その後直ぐにニュージーランドから昔と変わらないヤニックさんの
フランスなまりの英語で明るい声の電話が入りました。
彼女は本当に白血病ではなくなったのだそうです。

誰も信じてくれない、
わざわざ彼女のお姉さんはフランスから様子を見に来たそうですが、
信じられない彼女の回復を見てみんなに知らせるために直ぐにフランスに引き返したと言います。

はからずも私がヤニックさんのことを海の広場に書き始めて
一ヶ月ちょっとでうれしい知らせを受け取ったことになります。

私が知る世界で最高の女性セーラーはヤニックさんです。
女性と付けなくても世界で最高のセーラーの一人です。
彼女と友達になれたのもヨットをやっていたおかげです。

これが私の考えていた「ヨットと女」という題名の中身なのです。
私と同じ 鼻の下の長〜い 紳士諸子、
期待させて悪かったですね。

でもヤニックさんは「ヨットと共に生きる素晴らしい女性」なのです。   

 

2016/01/26

2015年11月29日Yannckさんは白血病の苦しい抗がん剤治療を自ら断り亡くなったと言うことです。

僕は昨日から頭の中がその事で一杯になり今は何も手に付かない状況です。

この冬一番の寒さと強風とミゾレで少しお休みしなさいと言う事かも知れません。   

おしまい

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