61 ヨット三昧 (2002/07/28)

中学校二年の夏に 暑い日中の校庭を横切っていてふとヨットのことを思った。

それまでは気球にゴンドラをつってというような旅を夢見る少年だったが、
それでは実現の可能性がきわめて低いことが中学生になって解った。

そこで一気にヨットに方向転換して、
ヨットで世界の海を駆けめぐることを夢見る少年になった。

ただし頭の中で考えて船内配置を航海を夢見て絵にするだけでそれ以上は進めなかった。
そのころ愛媛県には「勝山」という愛媛大学ヨット部所有の21フィートのクルーザーがあるのみで、
ヨットなど見かけることはなかった。

まして私は温泉郡重信町という海まで20キロメートルくらいある田舎に住んでいたので、
海を見るのも年に一度くらいで、
ほとんど頭の中だけで ヨット ヨット と考えていただけだった。

高校になって父が友達の西岡先生に(愛媛大学のヨット部を作った人)頼んでくれて、
「勝山」に乗る機会を得た。
ほんの別府までの3日の航海だったが、
これが私の将来を決めた。

何をしても一度も父を越えた覚えのない私は、
ヨットがヒールして楽しくてたまらないときに、
父親がライフラインにしがみついて黙ってしまったのを見て、
そうだ ヨットなら遙かに父を越えることができると勝手に思いこんだ。

そして 高校の時も授業中までヨットの絵を教科書をついたてにしてたくさん描いた。
どちらが前の机だったか忘れたが、
偶然にも私と同じにヨットの絵を授業中に描いている越智博文君と友達になった。

学校の帰り越智君の家に行くと、
ヨットの雑誌「舵」があり、
そこで本格的なヨットの知識を得た。
ただ頭でっかちで全く経験のないヨット狂の二人だった。

越智君は50歳になった今でも南米を旅している。

大学にはいるとヨット部があったが、
やっていることは三角レースのつまらない帆走で、

私の考えているヨットとはまるで違っていたのでヨット部には入らなかった。
ヨット部の先輩たちがみんな4年で卒業できていないと言う事もヨット部に入らなかった原因だった。
何をおいても早く卒業してヨット(クルーザー)に携わる仕事に就きたかった。

私は大学卒業の22歳になるまで父に逆らったことは一度もない。
厳格な父親で言い出したら聞かない、
私の主張など言える相手ではなかった。

私は生まれて初めて就職先をヨットに関係ないところには行きたく無いと主張した。
それで、父はあちこち手を尽くして兼松江商がやっていた、
兼松マリンを探してきた。
私は喜んで大崎上島に赴任した。

そこで2年半働いて「鴎盟」を買った。

それから太平洋一周に旅立った。

その途中で外洋を長時間走るなら自分自身が作った信頼おける木の船でなくてはいけないと、
強く思うようになった。

航海から帰ってきたものの 
ヨット以外の仕事は考えられないで、
52フィート「エリエール」に乗る仕事を
東京、横浜に合計7年間住んでやった。

ハワイやグアムそして父島には何度も行った。

しかしこのままでは自分の船はできないと言う考えが大きく広がってきたので、
エリエールの艇長をやめて、

愛媛に帰り木のヨットを作る腕を磨くことにした。

何もかもが自分の最高の船を造り、
最高の航海をするための、
私の妥協のない歩みだった。

両親には心配のかけっぱなしだし、
ヨット以外のことはほとんど考えないと言っても良いくらいなので、
世間一般の常識は通用しない私の世界である。

良い悪いは別にして、
他に何もやらない考えない私の人生は、
ヨット三昧だといえるだろう。

後5年 三男が20歳になったら、
自分自身の船を造って最後の旅に出るつもりである。

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