海で生き残る条件(7) 1984年4月
横山 晃



  スポーツの安全性と危険性  

 日本のスポーツ指導者は外国の指導者に比べて安全性という言葉を好み、危険性という言葉を嫌うようだ。この二つの言葉が、「一つのことを表から見るか裏から見るか」の違いだけならば、一向にかまわない。けれど関連する思考のなかで、この二つの言葉が、日本の指導者が安全面には注目しても、 危険の現実は見ようとしない姿勢の表れならば大問題だ。

 たとえ室内ゲームであろうとも、負傷や過労や骨折などの危険を予期しないような、無防備なアプローチはスポーツマンシップに反するはずだ。
 「(敵が)来ないことをたのむなかれ、待つあるをたのむべし」という孫子の兵法を引用するならば、「負傷、過労、骨折、遭難などのトラブルが来ないことに期待を賭けてはならない。 トラブルに対処する準備があって、トラブルを待つ姿勢があることに期待を賭けなさい」という標語になり、その「トラブルを待つ姿勢」が、 指導者だけでなくてスポーツ現場の全員に普及しているならば、トラブルは未然に回避できるのだ。その意味で、この孫子の兵法を、すべてのスポーツマンの兵法としたい。

 だから、「安全の基本は、第1に危険の可能性を残らず予想すること。第2に、その危険を待ち受ける姿勢を整えること」とする必要がある。 とりわけ、登山やヨットや格闘技のような危険なスポーツは、入門の第一歩から、その危険性に目を向ける習慣が必要である。

 だからヨット界の指導者は外部に向かっても、 「ヨットは安全なスポーツである」などといわずに、「危険なスポーツである」と広言する勇気を持たねばならない。
 たとえ、そのために多くの青少年や親達が、ヨットに近づくのを中止しようとも、「そのような腰抜けの“事なかれ主義者″は、来ない方が幸い」なのだし、 役人や政治家が援助を打ち切ろうとも、弾圧しようとも、
 「スポーツに価値があるのは、その危険性が人間の体力・気力・精神力を鍛えたり、試したりするところにある」
 「だから,危険度の高さは、スポーツ価値の高さである」
 「その意味で、価値あるスポーツは、すべて危険なのだ!!」
 「貴公達は、すべてのスポーツを弾圧する勇気があるのか?」
 などと言い返して、戦う勇気が必要である。

 海は、最も素朴で逞しい大自然である。  だから、どんな巨大な財力でも政治力でも、管理できる海面は「僅かに港内だけ」と言っても過言ではない-- その港内でさえ、大シケの最中は管理不能なのだ--。

 まして、開放された海面では、短距離レースや練習のために、マーク・ブイを打ち、監視艇を配置し、クラブや学校や協会の組織力で、 役員達が監視の眼を光らせてさえ、管理できる時間帯は長くない。
 私たちがその方式を「幼稚園方式」と呼ぶと、協会や学校の役員達は限りない屈辱感を覚えるらしい。 ナゼなら、ブレザーコートで武装し、肩をゆすって閑歩しながら、鷹のように眼を配る彼らの威力をフル稼勤した管理でも、陸上の幼稚園に比べれば、管理効果の完璧さの面では、 大人の前の幼児ほど貧弱で底が浅いことを、彼ら自身が百も承知しているのだから。

 「何も、陸上の幼稚園を引き合いに出して、管理力の貧弱さをヤジることもなかろうに……」というウシロメタサが、心の底でチクチクするためだ。

 まして、外洋ヨット・レースの場面では、レース主催者が管理できるのは、スタートの瞬間とフィニッシュの瞬間という「合計、タッタ2秒間に過ぎない」という現実を、ご存知の人は意外に少ないようだ。
 さらにクルージングともなれば、計画段階の第1歩から非公開だから、政府や協会などの管理は一切拒絶した次元で、すべてが進行する。

 以前に、ある一流大企業の企画部が第1級のマーケット調査会社(たぶん電通?)と契約して、日本では最初で最大という本格的正攻法のマーケット・リサーチ作戦を展開したことがあった。
 それは、「今後10年間に日本で最も有望な、成長株のレジャーは何か?」というテーマだったが、そのシュミレーション調査の結果は、何と「ヨットだ!!」という答であった。
 そのリサーチ・シュミレーションの経過は、

㋑   日本人がたしなむレジャーを、マージャン、パチンコから、ヘリコプター所有に至るまで、すべて書き出して、所属人口の現状を調べ上げた。

㋺   それぞれのレジャーごとに、サンプル人口を引き出し、「次にやりたいレジャーは何か?」、「次の次にやりたいのは何か?」を克明に聞き出して統計を取った。

㋩   上記イの一覧表を源流にして、1年後の人口移動は? 2年後は? 3年後は? と、川の流れが分流したり、合流したりするように、 人口移動が延々と続くのを、克明に追跡するシュミレーション作戦が、ロの統計結果をシナリオにして、延々と大がかりに展開され、累積されていった。 サテ、その大作戦の結果は、何と、「10年後にはヨットだ!!」と出てしまった。

㋥   そこで、その大企業の企画部員が、おっとり刀で私の事務所に相談に来た……という次第なのだ。


 このように、多くの人々から憧れの眼で注目されるヨットの、何処に、そんな魅力があるのか分析してみよう。

 その第一理由は、「管理され尽くした文明社会からの脱出」だった。
 すなわち、陸上の近代社会では一人一人に背番号がつけられ、「ポケット・ベル」という首縄がつけられて、その首縄の端末は管理者に握られて、昼夜24時間監視されている。その、「ウンザリする管理社会から、土・日だけでも脱出して、管理者の手が届かない所で過ごしたい」という願望をかなえてくれるのは、山? 国内旅行? 海外旅行? など、など、色々とあるのだが、陸上にいる限りは、直にポケット・ベルで、背番号の世界に呼び戻されてしまう。  となると、管理者の手が届かない場所なんて、果してあるのだろうか?……あるある。それが海上だったのである--たとえ領海200マイルの外側まで逃げ出さなくても--

 第二の理由は「自然への回帰」だった。 まず、庭。そして畠……だが、タネも農具も肥料 も、そして土までが、デパートの商品になっているし、庭で焚き火でもするとすぐに、「ケムリ公害だ」と近所から電話がかかってくる。それでは、庭も畠も「自然への回帰」にはほど遠い存在に思われてくる。
 だから次には山歩きに挑戦する。けれど電車も田舎道も人、人、人。山道になっても、銀座や新宿と同様に人の列が続くし、狭い山頂には人間がギッシリ。
 そこで今度はヨットに挑戦すると、江の島ヨットハーバーは、やはり銀座・新宿並みの混雑だし、海上へ出てもフネ、フネ、フネである。ところが、真南へ向かって1時間走ると、後方は霞のように帆が群らがっているのに、前方の帆影がマバラになってくる。そしてさらに1時間も走れば,殆んどフネに行き会わない水面があるではないか!
 こうなると、その海の、「水、魚、烏、波、風、そして雲までが、千年前の海と同じかも知れない」などと、幻想にひたる時間があるだけでも、晴らしいことではないか!!

 そして第三の理由は、「危険があるすばらしさ」であって、これこそ本物のスリルなのだ。
 だがこのことだけは、人に話せば誤解されるのは必至だから……内緒、内緒。


  遭難の背景  

 NORC(日本外洋帆走協会)安全委員会の委員長を、20年もやっているうちに、 「すべての遭難は、世相の背景を代弁するモノである」という世相哲学の面白さに、何回も出会う機会があった。 極言するならば、「偶然に起こる遭難事件でも、その結果を分析すれば、80%までが世相哲学から切り離せないケースで、 世相と無関係な遭難は、僅か20%以下に過ぎない」と思われた。

 その結果を紹介すると、

Ⓐ   1951~55年の5年間は、在日外人船が遭難例の100%を占めた。遭難状況は沿岸の岩礁、への乗り上げ、または激突による大破沈没だった。
 理由は状況判断と操船の未熟、トレーニング不足、気象海象の変化と自分の疲労に対する予測の甘さ、であって、当時の世相は,日本占領軍兵士と軍属の経済力が急上昇してルン、ルン時代だった。 だから彼等は当時、俄成金で、浮かれていた。

Ⓑ   1956~62年10月、無事故。世相は落ちつき、経済復興に一致協力した時代である。

Ⓒ   1962年11月~68年、日本人大学ヨット郎の学生の遭難が85%以上を占めた。
 遭難状況は、艇が沈没して全員が死亡した事故が3件で、合計15人死亡。沈没の直前に艇上でパニックの発生が推測された。そして、パニックの直接理由は「艇長不在現象ではないか?」と思われた。
 そのほか、落水、漂流なども、学生に発生した。しかも、当時の外洋コット界の中での学生ヨットマンの人口比率は10%以下だったから、人口に対する遭難発生率は、一般社会人に比べて学生が200倍という、異状な高比率だった。そして、当時の世相は、まさに大学紛争の最盛期と一致していて、学生達ははき違えた民主主義を振りかざし、主導権への参加要求から、奪取要求まで唱えた時代である。

Ⓓ   1969~71年、再び無事故の時代が来た。大学紛争が下火になる前から、学生遭難は終った。たぶん、学生達が自らの非に気づいたことで、すぐに遭難が出なくなり、続いて学内でも紛争を起こさなくなった、と思われる。

Ⓔ   1972年以後、一般社会人など、不特定、無差別に、落水事故などが散発。NORC安全委員長の私は、上記ⒶⒸの経験から「今度も何か、世相との関連があるに違いない」という推測に立ち、遭難発生のたびごとに、'72年以後のケースの、最大公約数でも最小公倍数でも、生物学的共通項でも、社会科学的共通項でも、「何でもいいから、何か共通項があるはず」という摸索を続けた。
 そして、ついに探り当てたのが、「不在オーナーと、ただ乗りベテランとの組み合わせJという共通パターンが、60~80%を占めつつあるという現象だった。その現象の中で、徐々に気づいたことは、その不在オーナーを言い替えれば未熟オーナーで、悪意も失策もなくて、ただ、ヨットメーカーやディーラーの甘言に乗せられた金主に過ぎないように見えた。

 また、ただ乗りベテランは、極めて熱心なベテラン・クルーで、ヨットメーカーやディーラーのおかげで、スキッパーに昇進できた出世組なのだが、統率力や総合判断の力量に欠けるために事故を起こすケースが多かった。

 結局そのように共通する動機は、メーカーやディーラーがフネを売る作戦の上で、未熟な金持ちに熟練ヨットマンを紹介する商法の行き過ぎではないかと、想像された。
 このような商業主導型という点は、ⒶⒸとまったく異質ではあるが、艇長の不適格、力不足という点はⒶⒸとまったく共通だった。 「(クルーがスキッパーに直行した)急速昇進の犠牲」という点は、Ⓐの、日本占領外人の俄成金と共通に思われた。 また「リーダーシップのはき違え」という点は、Ⓒの戦後派学生と共通のように思われた。

 この、現在でも引き続き進行中のパターンを避けるために、とりわけ注目すべきことは、敗戦直後のⒶの時代に、 日本人ヨットマンたちのグループから1件も遭難が出ていないことである。 それには、当時の在日外人たちが自家用車を乗り回す俄成金だったのと比べて、日本人ヨットマンは、ボロ衣服で空腹で、 ハーバーヘ徒歩で往復する極貧だったことに注目してほしい。

 それでも、ボロボロのA級ディンギーで長時間帆走をマスターした私などが、「帆走の神様」のように重宝がられて、外人達から常に利用されていた。 だから、私などを利用しなかった人や、利用しなかった時に遭難が集中したのだ。

 だから今、現在でも、遭難したくない入門者は、たとえ財力はあろうとも、ディーラーの甘言に乗せられて豪華艇を買う前に、 粘り腰のディンギーを買って、長時間帆走の練習コースをマスターしてほしい。

 けれど、もしも高齢者が「チンしない練習だけは、とても無理」と思った場合は、その練習だけ見送る代りに、 排水量1000~2000kgの最小型キール・ボートグループの中で、12月号の拙文で説明したディンギーに、固定フィンキールを追加したような、 保針性と凌波性と復原性能の完璧な艇を最初に買って、「気象予想の適中率99%」を目指す練習とか、激烈な突風に対処する帆走練習とか、 とにかくディンギーの場合と同等の、長時間帆走練習に、500~1000時間は没頭してほしい。

 豪華艇を買うことや、ベテラン・クルーを募集することなどは、自分がベテランになるまでは、保留する方が賢明である。 そうしないと、いくらヤル気が強くても、金出し係りにされるし、乗艇まで拒否されて、不在オーナーにされたり、クルーやスキッパー遭難死の責任だけ追及されたり、 という丸損の世界に追い込まれるのだ---。

(次号につづく)

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