海で生き残る条件(9) 1984年 6月
横山 晃



  大学ヨット部の問題点  

 事件の発端は1962年11月の初島レースで、「早風」(早大)と「ミヤ」(慶大)が10名の学生(一部にOBを含む)と共に消息を断ち、「ノブチャン」から慶大生1名が落水死亡して、合計11名死亡という悪夢のような大事故だった。
 次いで1965年3月には「翔鶴」(学習院大)が沈没して5名全員死亡し、それと前後して大学ヨット部関係にだけ遭難騒ぎが続いた。

 結局、外洋ヨット人口の中では5~10%に過ぎない大学ヨット部だけが、日本中の外洋ヨット遭難の85%を独占するという異常発生が続いた。(その間に大学以外の一般社会人ヨットマンの遭難は大学ヨット部よりもフタ桁低い遭難率に留まるのだが、それでも1950年代にゼロだったレペルから見れば、格段の増加だった。)


 学生ヨットマンの1人1人を、社会人ヨットマンに比べると、マジメで練習熱心で、体力も技術力もモラル水準も、社会人より高くはあっても、決して低くはなかった。事実、社会人所有のヨットでクルーになっている学生を沢山知っているが、彼らが遭難を招いた例は絶無だった。だから、学生個人に問題があるのではなくて、大学ヨット部のあり方に問題があるのは明白だった。

 だから、NORC安全委員長の私にとって、彼らにワナを仕掛けるアリ地獄の正体が何なのか? 全く不可解で不気味だった。
 けれどその正体は,1965年の「翔鶴」が、沈没現場の三浦半島南端のピシャモン漁港の港口付近で発見され、引き揚げられて、精密調査が進むにつれて、次のように解明されたのである。


①   船体もマストも損傷が無くて、フネは大きなウネリと共に暗礁の上に乗り、ウネリが去って谷になった時に、キールを空中へ突き上げられた形で横転以上の大ヒールとなり、ハッチから海水が乱入して沈没し、海底へ斜めに滑り込んだ。

②   フネが数秒間で沈没した時に、乗組の全員はデッキ上にいた様子で、バラバラに転落して、その場で溺死していた。

③   艇内にライフジャケットがあるのに、1人も着用していない。しかも1人は、長い長いロープを体に縛り、水泳する服装だった(3月の海水は冷たく、しかも闇夜なのに)。また、1人だけ,現場から数キロ遠力の葉山寄りで遺体が発見された。

④   メインセールは、ブームエンド金具がメインシートと共に、もぎ取られ、帆走に役立だない状態だった(バック・ステイにも、キズ跡があった)。ジプとスピンのハリヤードは、すべてマスト上へ逃げ失せ、ジブを上げられない状態だった。エンジンはフライホイールに航海日誌を巻き込んでストップし、再始動困難な状態だった。すなわち、フネの航行能力は、総て「お手上げ」の状態で、従って操舵しても、方向制御は不可能だった。

①   「それなら、クルー全員は、何もやる事がなかったわけだ。」
 「だからこそ、ライフジャケットを着てないのはおかしい。」
 「それよりも、メインもジブも、エンジンまで、全部ダメになるような、おかしな事件て、いったい何だろう?」
 「その、長いロープを体に付けた人は水泳の達人だったはずだ。しかも泳ぐ身支度までして、至近距離のピシャモン漁港まで泳がなかったのは、おかしい。」

⑥   その時に「おかしい事などないよ」と言ったのは私だった。
 「事件の発端は落水!! 落水したのは、数キロ葉山寄りで発見された彼だ。」
 「暗闇の海へ飛び込んで、助けに掛かったのは、長いロープの水泳達人だ。」
 「たぶん彼は、海中で落水者に絡み付かれて、二重遭難になるのを恐れた。だからロープを身に付け 〈オレが叫んだら、ロープをたぐって引き寄せてくれ〉 と言って飛び込んだ。」
 「それからは、このロープに引かれるようにして、フネを伴走させるのが大変だった。だから、ワイルド・ジャイプでブームエンドがバック・ステイに引っ掛かって、もぎ取られた。」
 「あわてて、暗闇の中でエンジンの始動を焦るうちに、航海日誌を巻き込んで、どうにもならなくなった。」
 「ますます焦って、ジブ帆走を試みるうちに、ハリヤードを皆、マスト上へ逃がしてしまった。」 「これですべてお手上げ、しかも水泳の達人はクタクタに疲れてるし、落水者は見失って打つ手も無く、全員気が抜ける。その時フネは、ウネリと共に暗礁に乗り上げ、次の瞬間に横転。しかもウネリが去って、キールは空中へ突き上げられる。全員はライフラインをつかんで、フネが起き直るのを待った。けれど海水が多量になだれ込んだ船体は、起き直る事もなく、海底へ滑り込んだ。」
 ……というシナリオに載せれば、すべての物証が、納得できるではなかろうか?

⑦   「ところで、シナリオの何処にも艇長が登場しないのは、なぜだ……」と誰かが言った。
 「それだ!! この事件のミステリーは、それなのだ!! ……もしも艇長が采配を振っていたら、こんな事件にならなかったはずだ。おそらく、……艇長は最初からいなかったと思うよ!!」と私。
 この時に、一同の背筋には、冷水が流れるような戦慄が走った。

 なぜなら、一同の胸中には次の2つの連想があったに違いない。そして、2年以上も謎だったアリ地獄の正体を、ついに見てしまったのだから…・・・。
 その2つの連想とは、
 「リーダーのいない集団が、こんなにも、もろく崩壊して行くものだと、今まで誰が予想しただろうか?」
 「たぶん、1962年の早風号もミヤ号も、艇上の終幕は大同小異だったに違いない。」



 想えば1960年代の大学は「止めてくれるな、オッカさん」の東大を筆頭に、全国ほとんどの大学に学園紛争が起こった時期で、学生達は学校当局と文部省という支配体制に反抗した。その学生達には、「学生の自治」という理想があって、旧来のリーダーをすべて排除するのが理想だったのかも知れない。
 それゆえ「船長がいないフネ」は、彼らの理想だったのかも知れない。

 だからNORC安全委員長としての私は、NORC会員の大学ヨット部のすべてに呼びかけ、ヨット部のキャプテンとマネージャーを招集して、ヨット部運営の理想と現実を聞き出した。すると予悲通りに、彼らの部活動は、文部省や学校当局から独立した自活を理想とし、ほとんど理想に近い形で運営されているので、フネのオーナーは実在せず、従って艇長を任命する人はいなかった。

 だから彼らは「ティラーを持つのがスキッパー、という事ですね。」 とか 「先輩だとか、実力があるとか、スキッパーは自然に決まるわけですね。」
 とか、全く漠然としていた。だから、フネが順調に走っている時は、艇上の秩序も順調で、それが平和だと信じられているようだった。そこで「翔鶴」の事故分析を話して
 「そのような混乱の状況下でも、冷静に全員を指揮しうる艇長を、誰が、どうやって任命するのか?それぞれのヨット部で、結論を出して、知らせて欲しい」 と要望した。

 しかし、何処からも結論は出て来なかった。
 そこで、何回も同様の集会を招集して「艇長任命」と「オーナー代行者の決定』の問題を、大学ヨット部の遭難防止のための、最優先の課題として、説得し続けた。


  吊し上げを喰った安全委員長  

 「外洋ヨットの安全対策について、ご高説を伺いたいので、○月○日○時、渋谷体協の○号室へご足労ください」という手紙が学生ヨット連盟から届いたのは、1968年の頃だった。
 私は「来たな!!」と覚悟をきめて出向くと、それは意外に大きな部屋で、すでに数百人の学生が待ち受けていて、すぐ私を取り囲んで、艇長問題とオーナー問題についての詰問が始まった。

 「艇長の任命などと、時代錯誤の封建主義を強制するのは、横山さん個人の考えなのか? それともNORCの体質なのか、間かせて欲しい」などなど、似たような詰問が次々に出て来たので、なるべく多くの質問や意見を、丁寧に聞いてから、払は大要つぎのような意見を述べた。

 「順序立てて説明するから、落ちついて聞いて欲しい。日本の外洋ヨット界は1951年から活動を始めたが、1962年まで11年に、日本人のフネは1隻も遭難しなかった。それに比べて在日外人のヨットは、約10隻遭難し、それは1955年まで5年間に集中してから終わった。終わった理由は,大多数の外人ヨットマンが帰国して日本にいなくなったためと、少数の残留者が熟練して、日本人ヨット界のレベルに同化したためだ。

 ところが1962年に早大と慶大のヨットが遭難して11人が死んだのは、諸君の記憶にも生々しいはずだ。それから1965年には学習院大のヨットで5人死んだ。それらは1950年代には無かった大事故だし、死亡者も異常に多い。

 そのように1960年代の遭難は日本人に集中し、しかも大学生諸君に集中している。その上、日本中の外洋ヨット人口の中で、大学ヨット部員は5~10%に過ぎない。だから、もしも学生の遭難が、日本中の全遭難の5~10%に留まるならば、私は何もいう必要はない。ところが遭難件数からいっても死者の数からいっても、学生層が大部分を占めているのは特異な現象だし、偶然とは言い切れない何かが、そこにはあるに違いない。

 私は大勢の学生ヨットマンと懇意だった。一緒のフネに乗ったし、一緒にレースも闘った。だから、君達が有能である事も、マジメである事も、良いセンスを持っている事も、よく知っているつもりだ。それなのに、良い仲間を次々に失った。だから、これ以上もう、1人も死なせたくないのだ。

 だから私は何日も眠らずに〈なぜ遭難するのか?〉考えたけれど、分からないのだ。同じ日本人の中で、一般社会人のフネと君達のフネと、どこが、どう違うのか、教えて欲しいのは払の方なのだ。

 もしも違う点があるならば〈艇長の決め方〉とくオーナーの在り方〉だけしか、私は思い付かなかった。  艇長と船長は同じ意味なのだが、世界中に沢山の国があるだろう? けれど世界中の、どの国の船でも、船長は必ずいるし、その船長はオーナーが任命している。それは、議会政治の本家のイギリスでも、自由の国のアメリカでも、共産主義のソ連でも、船長を選挙制にした国は一国も無い。必ずオーナーが任命しているのだ。……日本でも一般社会人のフネは諸外国と同じにやっている。

 ところが大学ヨット部のフネだけは任命制でなくて〈皆が集まれば自然に決まる〉という、世界に例のない、ユニークな方法で決めている。……というよりも〈決めてない〉という方が当っているかも知れない。  けれど私には〈それが悪い〉などと決めつけるつもりは全く無い。〈それが遭難の原因なのかどうか〉など全く判断できず、困っているのだ。だから私は、全く個人の意思でここに提案しているのだ。提案というよりも、頼んでいるのだ。試しに……〈試しに〉で良いから、世界中の常識と阿に事を、やって見て欲しいのだ。

 それで、遭難が終われば、拾い物だし、終わらなければまた別の試みを探リ、やる以外にない。
 私は、払の提案が、無茶な当てずっぽうなのを百も承知だ。けれど、もうこれ以上君達の誰かが死ぬなんて、私には耐えられないから頼んでいるんだ。 --分かってくれるだろうか?--。」



 その時、学生達の中から「横山さんの言う通りにやって見ようじやないか!!」という声が上がると、各所でガヤガヤと騒がしくなった。それは、「安全委員長は横暴だ」という説と、「試しにやる以外にないじゃないか」という、2説の議論が、学校それぞれに燃え上がったのである。
 やがて、「あとは学生達だけで話し合いたいので、横山さんはご自由に、お引き取りください。」という事になった。



 それ以来、学生遭難はプッツリ出なくなったし、学園紛争の嵐も納まって来て、70年代の紛争は高校に移り、結局は、中学校と家庭内の暴力傾向という形になって、現代につながるのである。

 こうしためまぐるしい歴史の流れの中で、たった―駒の場面ではあったが、とんだピエロを演じる機会を持った事を、払は誇りに思っている。


(このテーマは終り)

印刷用 pdf




海で生き残る条件
1983/10 1983/11 1983/12 1984/1 1984/2 1984/3 1984/4 1984/5 1984/6
(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)