海で生き残る条件(8) 1984年 5月
横山 晃



  大型艇の教訓:責任の所在  

 シドニーからの手紙―――――――

 1955年から1962年までの7年間、日本の外洋ヨット界に遭難は起こらず、最大のニュースは1962年8月の、堀江青年マーメイド号(19ft合板艇)の太平洋横断というホット・ニュースだった。
 ところが、秋が深まった同年11月3日、初島レースの艇団が大暴風雨に遭遇して、早慶の2隻が姿を消し、他に慶大学生1名の落水を加えて11名死亡という、日本のヨット史上最大の遭難が発生した。

 そのレースを主催したNORC(日本外洋帆走協会)の理事違は、何回も集まって対策を協議した。
 その席上「安全委員会を作ろう」と提案したのは私で、そのために初代委員長を拝命して、その後20年間も安全委員長を務めることになった。
 安全委員会は、最初に在京理事の全員が委員になり、適任の人材を連れてきた理事に限って交替が許された。だから最初の安全委員達には物凄い実行力があり、その筆頭はモートン大佐だった。
 モートン大佐は横須賀米軍基地の司令官であり、ヨットマンの彼はNORC横須賀フリート・キャプテンを務め、NORC理事だったから、安全委員でもあった。

 その大佐は、すぐに全世界のヨット・クラブに手紙を出した。その内容は、前半に大事故の経過を説明し、後半には、「レースを主催したNORCは、どんな責任を負ったらよいのか?」「遭難による死亡と損失は、誰の責任なのか?」「遭難の再発を防ぐ対策は、どうすべきか?」などの質問が書かれ、それを教えてほしいと結ぼれていた。
 さて、世界中から続々と集まった回答を紹介すると、「遭難による損失に責任を負うのは、その艇のオーナーである」という回答が大多数に共通だった。

 「レースを主催したクラブには、行方不明者や不明艇の捜索、遺品の収集など、多くの人手と公的機関との連絡が必要な活動の面で、オーナーに協力する道義的責任が存在する場合が多い。けれど、遭難自体には、刑事責任も経済的責任も存在しない場合が多い」という回答が、2番目に多かった。そして「遭難発生の原因を分析研究し、事故再発の予防に向かつて、広域ヨット界の多くの仲間のために、最大限の努力を現在も将来も続けることが、NORCにとって重要な課題になるだろう」という激励も何通か見られた。

 それらの回答の中で、ひときわ異彩を放ったのは、暴風圏を横切るヨットレースとして有名なシドニー・ホパート・レースの、中心的な役割を果し続けてきたC.Y.C.A.からの手紙である。

 「我々のクラブは、いままで世界で最も多くの遭難事故が発生し、多量の人命とヨットを失った。我々は、その対策として、たくさんの試みを次々に実行した。けれど我々は、あらゆる試みに失敗した。
 それでも近頃は、遭難の減る傾向が見えてきた。その理由は、多くの勇気あるクラブ員が次々に出てきて、世代交替した結果であって、成功理由のすべては、人材にあった。」
 という手紙だった。「あらゆる試みに失敗した」というくだりに、安全委員達の顔は青ざめた。想えば日本も南半球の暴風圏に劣らない、気象変化の激烈な海を持っていて、アジア大陸から太平洋へ張り出してくる低気圧と高気圧が、集中的に発達する曲りかどに存在する国なのである。

 結局は彼らが言うとおりに、バイタリティーに富んだ若者達が、ゴキプリのように生き残る能力を持つ以外には、どんな妙案もあり得ないのかも知れない。それでも、だからといって成人のリーダー達が、何も試みることなく、若者への期待に溺れていたら、若者遠の奮起はあり得るだろうか? 否!! 否!!


 やはり、最初におとな達が、安全規則の制定とか改良とか、安全備品の開発、整備、検査、改良、船の改良、自分白身のトレーニングなどなど、何でもすべて余すところなく、全力を尽して体当りして、それが次々に失敗に終っても、くじけることなく、また試みてまた失敗する--という不毛の努力を繰り返すことによって、若者達が、どんな他力本願も通用しないという現実を長年にわたって見せつけられて、はじめてゴキブリ志向が始まるのであろう。

 その失敗を繰り返す「不屈の挑戦」こそが現代を担うおとなの責務であることを、シドニーからの手紙が私達に教えてくれた。
 例えば、遠洋漁業の船上では、最初から遠洋漁船に乗り組んだ大多数の人間と、磯の小舟で半生を送った後に転向してきた少数派の人間との混成なのだそうだ。そして、イザという危機の時に、的確に状況を判断して、率先して行動の手本を示すのは、磯の小舟からきた人なのだそうだ。
 とすれば、全員が死んだ早慶ヨット(初島レース)の中に、各艇1人ずつでもディンギーの長時間帆走で鍛えたゴキブリ・セーラーがいたならば、その艇は遭難を回避でき、同乗5名の全員も死なずにすんだことだろう。

 私が前々から主張してきた「シングルハンドの長時間帆走」という自己開発方式は、多くのベテラン・ヨットマンから「シングルハンドなんて、第一線のヨット界に一隻もない帆走法を練習するのはナンセンスだ!!」と反対されることが多かった。けれど私は逆に「多人数チームの中に、わずか1人でもゴキプリ・セーラーがいたら、全員死ぬか? 全員生き残るか? の瀬戸際を乗り切れるのだ」と唱え続けてきた。その弘の少数意見の根源には、このシドニーからの手紙があったようだ。


  鎖国時代の終幕  

 全世界のヨットクラプからの手紙で、責任の所在が明確になった。

 だが私達の前には,暴風圏よりも何倍も恐ろしい怪物が、二つも現れた。それは、日本のマスコミと日本の一般大衆だった。
 私達が全世界から仕入れた「責任の所在」の筋道を話すと、その瞬間に彼らの表情は一変して、「極悪非道の冷血漢は、こいつらだ!!」と指差して騒ぎ出すのだ。

 ナゼ、全世界の常識が彼らの逆鱗に触れるのかといえば、たぶん、日本の大衆は「レース主催者が全責任を負って、レースをお膳立てした。だから選手は安心して出場した。なのに事故か起きると、主催者には刑事責任も経済的責任もない、などと逃げ腰になる。それではまるで、学童を引率する教師が敵前で逃亡するのと同じに、死刑に値する!!」という論理が動かし難い大前提なのだろう。だから私どもが、そこで「その考え方は、全世界の先進国の人々と逆向きだ」などと抗議しようものなら、「日本は欧米の属国ではない」などとより以上に激怒して、火に油を注いだように手がつけられなくなる。その状況はまさに尊王攘夷にいきり立つ、鎖国末期の志士 達が、「寄らば斬るぞ!!」と身構える思考過程そのものだった。

 まことに意外なことに、マスコミ社会部の人々は、デスクに至るまで、全世界の常識には耳を傾けようとせずに、まったくヤジ馬代表の立場から一歩も出ようとしない頑固な体質には、一片のインテリジェンスも見えないことに、私達は唖然とした。

 思えば当時の日本は、半年前まで鎖国時代だったのは確かで、その転機が「堀江青年の密出国事件」に見られた。その時、払は当局に出頭を命じられ、「密出国ほう助の疑い」という罪名で調書を取られた。それがつい数カ月間のことなのだから、記憶に新しかった。

すなわち---。

官   「あなたは、堀江がヨットでアメリカ渡航を計画しているのを、事前に知ってましたか?」

私   「彼はヨットの設計図を買いにくる前に、そのフネで太平洋横断は可能ですか? という質問をハガキで問い合せてきました。私は不可能ではありません、と返事したので、彼は大阪から買いにきたのです。だからもちろん承知してました」

官   「あなたはなぜ、その計画を制止しなかったのですか?」

私   「私は冒険奨励主義者です。だから、よほどの無謀さでない限り、制止するはずはありません」私はその時、吉田松陰がアメリカヘ密出国しようとした瀬戸際で逮捕され、処刑された時代が「別 な時代ではない」という実感を持った。

官   「その時のあなたには、堀江が密出国するのを、そそのかすような言動があったと思いますか?」

私   「結果として、あったと思います」

官   「その状況を説明して下さい」

私   私「彼が設計図を買ってから、『私がいろいろな努力の末、最後にアメリカに到達する過程で、1番困難なことは何だと思いますか?』と私に質問したので、払は即座に『出国手続きです』と答えました。それだけでなく、さらに付け加えて『ヨットで出国するのは、不可能に近いほど困難ですから、あなたは今からすぐにその困難さの実態を調査して、なるべく早く対策研究を始めるべきだ』などと助言しましたので、彼はそのとおりに調査し、その困難さが予想以上なのを知って、密出国に踏み切ったものと思います。だから、彼が密出国を決断した、第一原因に点火したのは私だと思うのです」


 そこで私と担当官の対話は、3時間も途切れるのだ。しかし、当時の私はすでに、数年前に五十嵐保夫君がイレイン号で出国した時に、アメリカ船籍のイレイン号で、そのオーナーと一緒という状況でもなお、五十嵐君が担当官と数カ月も押し問答を繰り返すという困難があったのを知っていた。

 しかも、法のたてまえは、自力航海のヨットであろうとも、出国禁止ということではないのに、窓口役人の臆病だけが原因で、ぬらりくらりと、手続き拒否が続けられる現実を知っていた。だから、もしも私が「密出国ほう助」の疑いで逮捕されれば、私も堀江青年という英雄に次ぐ次席の英雄になるであろう風潮の中で、必ずマスコミが書き立て、世論が動き、窓口役人の「事なかれ主義」が、堀江を密出国という犯罪に陥れ、横山の逮捕という暴挙に発展したことを、徹底的に騒いでくれるはずと予想した。

 だから、私を調べる役人が、調書を取るのを1時間も中止して考え込んだ時に、私は「言ったとおりに書いたらどうですか?」と意地悪な攻撃を始めた。
 けれど役人は、顔を歪め、油汗を流しながらも、無言でさらに2時間も考え続けたのは、払の意地悪い攻撃意図を見破ったうえで、関係者を1人も傷つけることなく、この難問を終わらせる方法を模索し続けていたようだった。やがて彼は、奇妙な言い回しで調書を書き上げ、私は待ちくたびれて、どうでもよくなっていたので、「それでもよいでしょう」と同意し、調書に捺印した。

 その結果、堀江青年も私も、そして不届き者の窓口役人までが傷つくことなく、この事件は不起訴となり、以後は誰がヨット出国を申請しても、困難がなくなった。いい換えれば、400年近く続いた鎖国が、この時に終わったのだ。

 と思ったのはぬか喜びで、遭難事件が起これば、やはり「責任の所在」という大問題では、鎖国思想の壁に直面したのである。
 結局、我々はロを閉じ、黙って頭を下げて、嵐の通過を待つ以外になかった。
 そして、責任の所在を国際常識に近づけるには、10年でも20年でも年月をかけて、平静な時に粘り強く、近い人から段々に洗脳を進める以外にないと思った。


  責任の所在  

 その1962年の事故艇、早大の〈早風〉は、ヨット部OBの寄付金をもとにし、学校からの出費も加えて建造され、運搬も維持もヨット部に任せ切りだと聞いた。他方の慶大の〈ミヤ〉は、そのヨット部がインターカレッジのヨット部とは別の、学内同好会だったので学校からの出資はなく、この遭難で死亡した宮坂兄弟に母親が買い与えたフネで、兄弟はこのフネをヨット部に無償で貸与した形だった。また、落水死亡者を出した〈ノブチャン〉は、このヨット部の後援者の安岡氏の所有艇で、常時はヨット部に無償貸与してクラブ艇として使わせ、自分が乗る時だけクルー付きで個人所有艇にもどす方式だった。

 だから、この遭難に関係した3隻のすべては、オーナー不明もしくはオーナー不在という状況だったので、オーナーが責任を負うような状況ではなく、単なるスポーツ用品として扱われていたことが、全世界の常識と違うという意味で、何か不吉な要素のように思われた。それでも、そのことをいい出すとすぐに、マスコミから極悪人呼ばわりされるので、私達は黙って、いい出す時期を待った。

 すると1965年3月、今度は学習院大学の外洋ヨット〈翔鶴〉が遭難し、乗員5名の全員が死んだ。やはりヨット部が維持も運航も任されたフネだった。
 NORC理事の数名は、学習院大学の学長を訪問して、「先進諸外国には、遭難艇のオーナーが全責任を負うという原則があって、国際ヨットクラブのNORCは、その方式を採り入れています。〈翔鶴〉のオーナーの学習院大学は、どのように責任を取るお積りでしょうか?」と、真正面から質問すると、学長の山梨勝之進氏(元海軍大将)は、少し驚いた様子だったが、怒らずに善処を約束してくれた。

 その直後に〈翔鶴〉はOB会が寄付したフネだと知った山梨学長は、0B達に「学校当局は、今後このフネに学生を乗せることに、責任を負う能力がない。だからOB会にフネを返却する。今後は一切、学生を乗せないで欲しい」という処置を言い渡して、善処の約束を果してくれた。

 その後、早大の代艇〈稲竜〉も同様にOB会に返却されて学生用ではなくなり、この「責任の所在」は、ようやくヨット界に「新しい秩序」の波紋を広げはじめたが、それは1960年代も終わる頃だった。

(次号は、このテーマの最終回の予定)

印刷用 pdf




海で生き残る条件
1983/10 1983/11 1983/12 1984/1 1984/2 1984/3 1984/4 1984/5 1984/6
(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)